次に呑む日まで

呑める日が来るまでの往復書簡

感想文(2023年3月)

ジュン・チャンです。

あっという間に春が来て、走り去っていたような感覚で4月を迎えました。

『春よ、来い』『春の歌』『春泥棒』などを聞いて過ごした今年、ある意味で例年よりも慌ただしかった。

タカシナは元気かな。

 

【2023年3月】

(本)

カズオ・イシグロ土屋政雄=訳『わたしを離さないで (ハヤカワepi文庫)』

まどみちお『くまさん』

③島田潤一郎『古くてあたらしい仕事』

(映画)

①『ひみつのなっちゃん。』

②『エゴイスト』


【所感】

(本)

カズオ・イシグロ土屋政雄=訳『わたしを離さないで (ハヤカワepi文庫)』

カズオ・イシグロ氏の本は、母が何冊か読んでいて以前から知っていた。5年以上は前になる帰省時の記憶を辿ると、母は「あんまり好きではない」みたいなことを言っていたような気もするが、それももう別の作家のことだったのかもしれないし、本当に「好きではなかった」としてなぜあんなに何冊も同じ著者の本があったのか。今思えば不思議な話になる。

引越し前に正剛文庫から借りて一度返却したが、続きが読みたくて仕方なくて、引越し後間もなく再びお借りした。

淡々とした文章のなかに含まれる、厳然とした真実は残酷でさえあるが、登場人物達にとってはどうすることもない日常だ。自身がドナーの立場になる直前に、半生を振り返る介護人キャシーの語り口は、一貫して淡々としていた。淡々としていているからこそ、ところどころで現れる登場人物達の感情が鋭利に伝わってくる。あまりにも淡々とした語り口は、もう遠い過去の回想だからか、行くべきところへ向かわざるを得ない覚悟からか。

読者の感情を静かに揺さぶり、刺激する作品だった。読後感の感覚が映画『Stand By Me』を観た後に近かった。


まどみちお『くまさん』

雨でけぶる国東半島へ行った際に、初めて立ち寄った「海辺と珈琲ことり」に置かれていた一冊。遅い昼食をいただきながら、並ぶ背表紙を見ていたら目についた。まどさんのこれまでの各詩集からセレクトされた詩集。ザアザアと降る雨音に包まれながら読み進めていたら、ほっこりした。「さくらの はなびら」という詩の最後がスッと入ってきた。


③島田潤一郎『古くてあたらしい仕事』

仕事で佐伯へ行った際に、前職でもよく通っていた通りに根木青紅堂があるのに気付き、帰る前に立ち寄った。1時間くらいじっくり本棚を眺めた末に買った一冊。著者は一人出版社の夏葉社を経営する島田さん。走り出した自分に必要な気がして読み出したが、読み進めていくうちに人生迷子中の友人にも貸し出すことを決めた。

本書は出版業界に特化したビジネス本では決してない。自分の人生と本との関わり、他者との関わりについて精緻に綴られた、エッセイのまとめのような本だ。素朴で穏やかだが、確信に満ちた文章に、会ったことのない島田さんの人柄が滲み出ていた。

小さな声に耳を澄ますこと。自分がこれからやっていくと決めたことも、そういうことに違いない。目の前のありきたりな日常がすべてで、尊いものだ。

本が、誰かの言葉が、傍らにあったから生きてこられた人生であることを思い出した。

 

(映画)

①『ひみつのなっちゃん。』

ドラアグクイーンを題材にした作品でもあり、本作の主題は「美しさについてか?」と引っ張られていたが、帰宅後ハッとした。どのように自身の存在を認め、肯定し生きるかを問う物語だったのではないか。

「マイノリティ」に分類されるものは、属する社会構造のなかで抑圧を強いられやすく、自尊感情を低下させやすい傾向にある。性的マイノリティに関しては、精神疾患の発症や自殺率の高さが認められている。

こうした現実的な背景や、主人公が年齢を重ね人前でパフォーマンスをすることに(きっといろんな理由で)気持ちが向かなくなっている状況下で、自分を認め励ましてくれていた他者が急にいなくなったという事実。葬式で明らかになる駄洒落は、なっちゃんの喪失を際立たせるとともに、なっちゃんから主人公へのとてつもないエールだったんじゃないか。

最後の盆踊りの場面の余白で、3人は何を思ったのだろう。

作中ちょっとやり過ぎでは?という演出もあったが、滝藤賢一の美しさ、渡部 秀のダンスの美しさ・キュートさに良しとした。対照的な荒っぽい主題歌が良いコントラストだった。


②『エゴイスト』

濡れ場の噂を聞いていたため観に行くか悩んだが、濡れ場がメインの作品ではないし、鈴木亮平の演技観たいし、とブルーバードへ。開始30分以内に濃厚な絡みがスクリーンに現れたが、そこそこの画面サイズでこういう場面を観る機会自体が久々だと気づいた。

作品冒頭、母親の命日に故郷へ帰る主人公が映し出され、主人公による「ブランドの服が鎧になっている」との語りがある。その鎧が崩れていかざるを得ない状況となる。

肉欲、性愛を越えた感情。共に生きる覚悟、時間の共有。その最中で起こる突然の喪失。主人公は14才の時に死別した母だけではなく、若い恋人も失う。

最後の場面(そんな風に全く感じさせなかった)で、衰弱していく義母の手をさする主人公の手が映し出された辺りから、感極まった。最後の義母の言葉で涙が噴き出した。あの最後の二人のやり取り、一場面によって、主人公も義母も救われたのではないだろうか。主人公にとっては、早世した母への心残り、恋人への罪悪感が。

タイトルにするくらいだからもちろん意味はあるのだろうけれど、愛がエゴ、と言う主題だとは自分には思えなかった。むしろ言葉にしてしまうことで掴みきれなくなってしまう、愛する人達が容赦なく消えていった人の、人生の悲哀と後悔、やるせなさを描いた作品だと自分は思った。

地味なポイントだが、俳優一人一人の表情、指先、動きに至る機微がすげかった。

感想文(2023年1月〜2月)

ご無沙汰してます、ジュン・チャンです。

仕事やら転居やらバタバタ過ごしていて、まとめて更新となりました。

 

(本)

吉本ばなな『キッチン』

② 藤田 早苗『武器としての国際人権 日本の貧困・報道・差別 (集英社新書)』

佐野洋子『死ぬ気まんまん』

④ メアリ ダグラス /塚本利明 訳

『汚穢と禁忌 (ちくま学芸文庫)』


(映画)

①『レジェンド&バタフライ』

②『そばかす』


【所感】

(本)

吉本ばなな『キッチン』

2年前の年末年始も、吉本ばななを読んでいた記憶がある。あびちゃんが朗読企画でくれた『王国』シリーズだった。ふとした会話から『キッチン』の話題になり、そういえばちゃんと読んでないなあと思って借りた。

大切な人との死別を端緒に、料理すること、食べるということ、誰かとともに在るということが描かれる。

人は食べることで紐帯を作っている、というのを、磯野真穂先生の『なぜふつうに食べられないのか: 拒食と過食の文化人類学』で読んだ。『キッチン』で扱われているのは、まさに食べる行為そのものと、食べる場を共有することにより、得難いものとなる絆のようなものであると思った。

漫画『作りたい女と食べたい女』に出てくる、会食で緊張し食欲が湧きづらくなる南雲さん(第34話「みんなといると」https://comic-walker.com/viewer/?tw=2&dlcl=ja&cid=KDCW_FS00202041010041_68)の話を思い出した。

言葉選び、文章表現がとても魅力的で、付箋を貼らなかったのが悔やまれる。登場人物みんなが愛おしいと思える作品だった。


② 藤田 早苗『武器としての国際人権 日本の貧困・報道・差別 (集英社新書)』

自分がずっと何年間も考え続けて、ある日ふと「全ては人権問題、人権感覚の欠如による問題ではないか」と思い至ったことを、簡潔に分かりやすくまとめてくれている一冊。意外となかった内容。本書を読むことで、日頃のもやりの背景を理解することができるだろう。具体的な事例も多ジャンル多数載っており、海外での具体的な市民運動によるアクションの実践事例には大変勇気付けられる。

本書の出だしに書かれていた、特定秘密保護法案成立までの間の国際機関への働きかけなど、まるで映画を見ているかのような臨場感を感じながら読んだ。

目先の変化には直結しなくても、3年後、5年後を見据えて、自分ができることを地道に続けていくことが大事だと思った。


佐野洋子『死ぬ気まんまん』

初の佐野洋子。快活さが溢れる表題作のエッセーから、一転して茫漠さが滲み出る「知らなかった」の温度差。しかし豪快さはある。この部分が好きだった。

[ 突然私の隣に坐っていた松葉杖の女の人が、「あの白血病の若い人やっぱり駄目だったね」と言った。

 堀辰雄の「風立ちぬ」みたいな二人だったと思った。私は三メートルくらい遠くを何回か透明なフィルムのように通過していった若いカップルをただ何秒かながめていただけだった。

 その時、ただそれだけだったのに猛烈な淋しさが私をつき抜けた。

 子供の時、もう遊ばなくなった、ガラスのおはじきの一つがどうしても見つからなかった時のとり返しのつかない淋しさと同じような気がした。小さな私の子供の宇宙から、大事なものが消えたことは、どこかにまぎれ込んで、また出てくるとか、ふざけて兄が盗んで例えば兄のポケットにあるとかいう望みは持ち得ないことを私は知っていた。消えたのだ。私の小さな宇宙から。言葉は知らなくても、それは永遠に失われるということを納得せざるを得ないことを知る淋しさだった。

 口をきいたこともない、私と関係もない人が、もう決して、静かに透明のまま私の前を通り過ぎることはないのだ。

 私にとっては通り過ぎるだけの人が永遠に失われたことが、この世の大切なものが消え失せてしまったとり返しのつかない淋しさを私に与えたことにショックを受けた。(P152〜153)]


④ メアリ ダグラス /塚本利明 訳

『汚穢と禁忌 (ちくま学芸文庫)』

2022年11月から開講した、磯野真穂先生によるFILTR講座「人類学の古典に親しむーメアリ・ダグラスというエアポケット」https://filtr.stores.jp/items/632e5f18c36dbe4e4e8d81f2

受講に合わせて、前半・後半合わせて4ヶ月間、毎週1章ずつ唸りながら読み進めた。

本書と出会ったのは学部生の時だからもう10年近く前か。「『汚い』と思うこの感覚(例えば、抜け落ちた髪の毛、自分の身体、ある人をそのように表すこと)はなんだ?」から図書館で検索して、本書の背景も何も分からず読み、全く理解できなかった。当時2回読んだが挫折した。

数年前に、磯野先生の『他者と生きる』か『聞く力を伸ばす』の授業で触れられたのをきっかけに購入したは良いものの、途中まで読んで止まっていた。計4〜5回読んで挫折している計算になる。そんな折、講座開講を知り、お金も厭わず勢いで申し込んだ。

結果、前半では毎回レビューシートも提出できたが、後半は開業走りだしと転居が重なり、授業についていくだけで精一杯となってしまった。

そんななかでも、磯野先生のガイドにより、論稿と自身の属する文化圏・社会での生活体験を結びつけながら「腑に落ちていく」感覚は非常にワクワクする時間だった。4ヶ月間精読し辿り着いた最終章に圧倒された。最終章を読み終えた時、自分のなかに一陣の風が吹き抜けた。ダグラス先生、ぱねえっす。


(映画)

①『レジェンド&バタフライ』

「信長と濃姫の関係性に焦点をあてた作品って、案外なかったんじゃね?」と思い、綾瀬はるか主演ほか、脇を固める俳優陣もよかったので、ファーストデーで久々行ってみた。

東映の総力を感じる圧巻の衣装、セット、小道具、化粧。気になったのは、一部時代背景とは合ってないんじゃないかと感じる言語表現があったような気がするが、東映だからあったとしてもわざと分かりやすくしたのかな、とも思った。

気弱な信長が役割演技に押しつぶされながら、最初っから好きだった濃姫に良いところを見せようとした結末が、凄まじいエンタメだった。

一瞬だった北大路欣也、全てを掻っ攫った家康(斎藤工ってわからんかった)、サイコパス明智(宮沢氷魚)、麗しき蘭丸(市川染五郎)、安定の伊藤英明中谷美紀。単純だからこの脇役ラインナップでもう楽しかった。


②『そばかす』

前職の同期が教えてくれて、ブルーバードへ観に行った。平日3人しかいない映画館て贅沢。没頭できる。

ふっつうの日常を普通っぽく切り取ったり演じたりするのって一番難しいことだと思うが、それをしれっとやっていた作品。

作中、主人公が告白された際にとった反応、人によっては大袈裟に思われるかもしれないが、自分は「ああー!わかるぞわかってしまうぞー!自分が悪かったんじゃないかって思っちゃうやつー!」と内心共感の嵐だった。別に悪くなんかないのにね。

あんまり好きじゃなかった前田敦子が好きになった配役。最後5分くらいしか出演しない北村匠海の、全てを掻っ攫っていた感、からのエンディングの歌が本当に全てを掻っ攫っていって、自分にとってはただただ応援歌だった。本作の主人公のような、自分みたいな人間だって生きていていいし、幸せであっていいのだ。

2回目も観に行ってみた。台詞ひとつひとつの繋がりがわかって面白かった。意図的なずらし方かはわからないが主人公の台詞が浮く場面があって、興味深かった。

マホちゃんが父に言い放つ「弱いものが意見しちゃいけないの」とか「なんでこわいとか恥ずかしいとか思わないといけないの」とか、主人公が妹に言い放つ「仕方ないじゃんこれが私だから」に反応してしまった。最後に遠藤がいった「同じような人がいるってだけで、いいやって思った」にとても救われた気になったし、そう思えた過去のある刹那を思い出せた。普段出せない、出せなかった、叫びを代弁してくれた映画だった。

感想文(2022年11〜12月)

2023年あけましておめでとうございます。

2022年12月で白米炊けた。解散しました。解散によせた挨拶はこちらにまとめています。

https://www.instagram.com/p/CmvwyAoLhs2/?igshid=YmMyMTA2M2Y=

 

最後の企画でタカシナと会って呑めました。一区切りではありますが、タカシナから「さらにスローペースになりそうだけど続けたい」と言ってもらえたので、往復書簡は続けます。どうぞよしなに。

 

 

【2022年11月〜12月】

山田宗樹『人類滅亡小説』

② 文・絵 さくら ももこ/文(質問)永岡綾『コジコジにきいてみた。モヤモヤ問答集』

AKIRA『アジアに落ちる』

④ 上橋 菜穂子『鹿の王 水底の橋』

⑤雑誌『ELEPHAS Ⅰ』

⑥ 谷 甲州 & 水樹和佳子『果てなき蒼氓』


【所感】

山田宗樹『人類滅亡小説』

正剛文庫より推薦され、トータル5〜6時間で読み切った。

三世代を越えた壮大な時系列。冒頭から登場する沙里奈の生涯が、時間経過を生々しく感じさせる。

厳然たる終わりに直面した時、人はどうなるのか。書き切っている。『百年法』よりも巻数は少ないが、内容は匹敵するくらいのボリューム感だった。

各部で主要な視点となる人物の切り替わりがあり、魅力を感じさせる要因になっていた。話が話なだけに、この切り替わりさえもバトン繋いでる感が半端なかった。


② 文・絵 さくら ももこ/文(質問)永岡綾『コジコジにきいてみた。モヤモヤ問答集』

寝る前に読んで爆笑。1ページで完結するのが良い。枕元の一冊入り。


AKIRA『アジアに落ちる』

正剛文庫より。生と死について考えるアジア放浪記。チベットの鳥葬の場面を始め、その場が匂い立つような描写と、著者の思考の揺らぎが読み応えあり。生と死は繋がっている、死はないんじゃないか、という、最後のタイ、日本の章はスピード感さえ感じる展開だった。


④ 上橋 菜穂子『鹿の王 水底の橋』

久々に行った図書館で目に入ってきて借りた。毎度学習しないが、ちょっと寝る前に読もうと読み出したら、2時前になっていた。恐るべし上橋マジック。

『水底の橋』というタイトル。読み終わった後に「ふわあああ!こう来るんすね!」と胸熱なタイトルだったし、父ちゃんの語りだった。

上橋先生、ご自身もエッセイで書いておられたけど、色っぽシーンも相変わらず少なくて(というかほぼなくて)、抜群の安定感でした。


⑤雑誌『ELEPHAS Ⅰ』

一雨にて、やっと読み出せて、気づけば読み終わっていた。「美しいを哲学する」というテーマでビビったが、読んでみたら「生きていく、生活のなかで大切にしている価値観」にフォーカスがあたっているようにも感じられた。


⑥谷 甲州 & 水樹和佳子『果てなき蒼氓』

水樹先生の『イティハーサ』を勧められて読了した後にお借りした本。まじでタイトル通り果てがなかった。何世代にも渡る宇宙を漂流し記憶をたどりながら、命を繋いでいく。スケールが広大だった。水樹先生の絵が抜群に世界観を作っていた。

第十五便 返信

第十五便にどう返信したらいいか、ぼんやりと考えながら過ごしていたら三か月ちかくも経ってしまった。季節も変わった。どう返信したらいいか分からなかったのは、私がインターネット上で政治について何か言うことに不慣れというか、どこか抵抗のようなものを抱いているからだろう。
そういう人って実は少なくないのでは、と私は思っていて、そんな人たちが政治についてなにかを言うというアクションに踏み出すには、ジュン・チャンの行っているような対話企画はとてもよい場になると思う。
一方で、例えばそういう場で明らかに間違ったことを発言する人に対して、どんなアプローチがあるだろうか、と考えたりする。明らかに間違った、というのがそもそも設定として難しいのだけどここではとりあえず史料によって反論可能な言説、としておく。発言内容について、正しい/間違いという判断は一旦置いておいて、というスタンスのほうがその場での自由な発言は促されそうだけど、とはいえ受け流せない認識違いもあるだろう。
第八便で『揺らぐin別府』についてのコメントとして「難しいことしようとしてるな(中略)その場にいる人を過度に傷つけないかたちでなにかしらの話し合いをすると言うのは、ホスト役の手腕に依る部分が大きいだろうな、と思うから」と書いたのもそうしたケースを想定してのことだった。認識の間違い自体は個々に根拠を基に指摘できたとして、それでその人の、そうした認識違いが積み重なり形成され、また新たな認識違いを生むことにもつながっているであろう、根本的な思想のようなものは、変わらないし、また外から変えるべきものとも思えない。対話は変わるきっかけになるかもしれないけれど、変えようとしてはいけない、そのバランス感覚がとても難しいように思えた。ジュン・チャンのいう、企画や対話の場での「自分の発する言葉や振る舞いの一つ一つがどう作用するのか、無意識にめちゃくちゃ考えているような気がする」という感覚は、言葉や振る舞いで相手の思想にまで触れることのできる立ち位置にいるホストだからこそのものなのではないか。

「誰だって、どれだけ気をつけていようと、加害性を内包していて、誰かを傷つけている。このことを自覚した先に、どう行動できるのか」
この問題提起に対してジュン・チャンは十五便で、「加害の事実を否定し、蓋をして被害に遭った側を糾弾しようとしない」構図を指摘したうえで「自分が誰かを傷つけた事実を認めるのも、自分が傷つけられたことを認めるのも、両方しんどい」「力を持つ側は、自分が持つ力にもっと自覚的であるべきだ」と書いている。私も読みながらそうだよな、と頷いた部分だ。
被害を受けた側にばかり求めるものの多い状況に対してはずっと怒りを感じている。傷ついてうずくまっているだけでは救済は訪れず、自分の顔や名前を出し、自分に起こったことを物語のように消費されるのにも耐えて、世間に対し訴えを続けなければそのまま泣き寝入りになってしまう。でもそんなのっておかしい。どうして傷ついた側が戦わなければならないのか。それはそうまでしないと謝りもせず自己保身だけし続ける加害者のせいなのだけど。
加害と被害はそもそも不均衡だ。被害を受けた側は謝罪や補償を受けたならどこかで落としどころとして許すことを求められる。でも許す必要なんてあるんだろうか。怒りを抱え続けたまま生きたとして、それもその人のやり方だ。謝り続ける側は無論しんどいだろう。罪に対応して刑罰が決められているように、どこかに終わりがなければ謝る側にも限界が来る。でもそれと許しとは本来別の問題だ。
と、ここまで書いていて、では私は許されないことに耐えられるだろうかとも思う。ジュン・チャンの問題提起を受けて、最初に思い浮かんだのは、自分が今までに犯してしまった人間関係の過ちだった。それがきっかけではないにせよ疎遠になってしまった人たちもいれば、本当に許されているのかは分からないがまだ続いている関係もある。いずれにせよまだ許していないと言われればごめんと言って項垂れるほかない。その時の自分をどんなに止めようとしてももう取り返しがつかない。
自分にも確かに加害性があり、だけど人とはこれからも付き合っていきたいと思うとき、なにができるだろう。月並みな言葉になってしまうけれど、自分の加害に向き合って謝る覚悟、だろうか。それが一番難しいことのような気もする。

うまく書けないだろうと思っていたらやっぱりうまく書けなかった。それもまた返信の味として受け取ってもらえないでしょうか。

寒くなるけど春までお互い生き残りましょう。

感想文(2022年10月)

ジュン・チャンです。九州も朝夕寒い日が続くようになりました。10月頭は京都で半袖だったのが信じられない。

 

(本)

① 江國 香織 いわさきちひろ『パンプルムース!』

② 信田 さよ子 上間陽子『言葉を失ったあとで』

③ 清水 晶子『フェミニズムってなんですか? (文春新書 1361)』

④ 山尾 三省 『火を焚きなさい―山尾三省の詩のことば』


【所感】

① 江國 香織 いわさきちひろ『パンプルムース!』

京都のメリーゴーランドで発掘。いわさきさんの絵に?(というか絵を?)江國さんが詩を合わせたもの。

収録作品のなかで、自分は「なくときはくやしいの」という詩に共感した。

いわさきさんのイラストが鮮やかで、生き生きしている。


② 信田 さよ子 上間陽子『言葉を失ったあとで』

国試に向けた勉強中に発見。ちょうど上間さんの『海をあげる』を読んでいたタイミングで、しかも目指す職種の信田さんとの対談とのことでもあり、買ってしまった。やっと読んだ。

まとめよう、まとめようと思っていたが、時期を逸してしまった。再読時にちゃんとまとめることにした。付箋がめちゃくちゃ生えている。頷く部分、唸る部分、ともに多かった。多過ぎた。


③ 清水 晶子『フェミニズムってなんですか? (文春新書 1361)』

清水先生の新刊ということで、楽しみに手に取る。フェミニズムの歴史から始まり、これまでフェミニズムが扱ってきたテーマについて平易に解説している、ポケットブックのような構成。

大変読みやすい。何より、とっつき易い。著者の慎重かつ大らかなスタンスによるところが大きく、安心して読める内容だった。

わかりやすい、とっつき易い、という点では入門書としてお勧めしたい一冊だ。

逆に言うと踏み込んだ研究論文とは毛色や目的が違うため、これを足掛かりに、別の著書も読むともっと深まる、そんな位置づけであるように思われた。

対談が大変示唆に富んでいて、読み応え抜群だった。

以下、印象に残った箇所を引用。

[長島 私の場合は第二次性徴が始まった頃から、自分の身体が思わぬ方向へと変化することに対して戸惑いを感じていました。これまで通りに身長だけ伸びて、男子に混じって外で遊べるような、おっぱいもお尻も大きくならない自分でいたかったというか。でも、周囲の人たち、特に男性たちの反応から、自分の身体が私の意思を置き去りにしてどんどん「女」に変化していることを思い知らされました。だから、なぜこの身体に私が入っているのだろう、みたいな疑問があったと思う。

(P48〜49「対談Ⅰフェミニズムに救われた二人の対話-長島有里枝×清水晶子)]

↑わかる、わかる、と頷きながら付箋貼った。

[インターセクショナルな視点は、差別を均一化し、簡略化することの危険性に注意を払うことを要求します。同じ女性同士でも白人女性と黒人女性、シス女性とトランス女性では、あるいは同じ黒人同士でも黒人男性と黒人女性では、差別の経験がまったくちがうことがあるのだ、という認識を前提に、私たちの社会が構造として何を中心に置き、何を軽視したり後回しにしたりしているかを考えることが、インターセクショナルな視点を持つ出発点となるのです。(P77)

 マジョリティに近い人ほど、「私の女性としての経験は、あなたの経験とはちがうかもしれない」という前提を受け入れるところから始める必要があります。「同じ女性同士だからわかりあえるはず」ではなく、「私とあなたは同じ女性であってもちがうし、あなたの経験を私はよくわからない」ということを確認しあって、そのちがいの背景にある差別や抑圧の構造への理解を深めていくことが大切なのです。そうやってさまざまな差別や抑圧が互いにどう関わっているのかを念頭におきながら、その中での性差別がどう機能しているかを改めて考えていきましょう、というのがインターセクショナルなフェミニズムだ、と言えます。(P78〜79  5 フェミニズムに(も)「インターセクショナル」な視点が必要な理由」)]

[清水 理性だの論理だの公的な言語だのというものと、そこに収まりきらず、そこからすり抜ける身体経験や感覚。どちらもがフェミニズムにとっては重要になると思うのです。身体経験や感覚にはとても具体的で個別な側面があって、抽象化して共有しきれない部分が常に残る。かといって、それぞれ個別の身体経験や感覚にとどまって、それだけをベースにして運動や社会や政治を考えることもできない。

 両者のすり合わせは、学問に限定せず運動としてのフェミニズムにとっても、重要で難しい課題だと思います。とりわけ、多数派ではない人々の身体経験やそこから紡がれる言葉をどのように共有し理解していくのか。そもそも共有したり理解したりできるのか。それは間違いなくフェミニズムが考えてきた、そして考え続けるべき重要な問いなのですが、実際には、色々な局面で、なんて難しい作業だろうと思うことが多いです。

(P235「対談Ⅲ 共感の危うさと生き延びるための言葉」)]


④ 山尾 三省 『火を焚きなさい―山尾三省の詩のことば』

船乗りが屋久島で知ったと教えてくれた。イラストレーターさんに勧められて立ち寄った京都のメリーゴーランドで本書に遭遇。悩んだが、ご縁を感じて購入。寝る前などにゆっくり味わった。朴訥とした飾らない言葉選び、描写は、自然のなかに還るような感覚を生じさせる。

感想文(2022年9月)

朝夜と秋の匂いがしてきました。

ジュン・チャンです。

9月は京都で実施する企画の準備に慌ただしく、じっくり思考を深める時間が確保できなかった。そんななか読めたラインナップ。

 

【2022年9月】

森鴎外舞姫

② 原田 マハ『〈あの絵〉のまえで』

村田沙耶香『信仰』

上野千鶴子『生き延びるための思想 新版(岩波現代文庫)』


【所感】

森鴎外舞姫

鹿児島でブラリ入った喫茶店で読了。あらすじは知っていたが、「なんちゅー話だ!」と思った。ただただ女が不憫。


② 原田 マハ『〈あの絵〉のまえで』

日常の派手じゃないありふれた話。ありふれたなかにそっと寄り添う絵画の感じがよかった。


村田沙耶香『信仰』

圧巻。村田作品を前にして、丸裸にされない人間なんていないんじゃなかろうか。④の上野先生の本と並行して読んだから、尚更そう感じた。

普段目を瞑ったり、騙されたフリをしたりしている様を、炙り出す。村田作品は、ある意味で暴力であり、ある意味ではこれ以上かい救済であるのかもしれない。


上野千鶴子『生き延びるための思想 新版(岩波現代文庫)』

再読3回目。深澤先生がポリタスTVで取り上げていたのを見て、6〜7年振りに手に取った。試験前に借りたら読み切れなかったので、改めて借りてきた。

本書に収録されている論稿の多くは、2000年代に書かれたものだが、20年近くが経過した今読んでも色褪せることなく、むしろ日本社会が直面する諸課題を意識させる内容だ。

以下、印象に残った箇所をメモ。

[ ミソジニーは男にとっては、他者嫌悪である。が、女にとっては自己嫌悪である。革命兵士になるためには、「女性的なもの」は邪魔だ。邪魔なものは殺せ。これが誰よりもせいいっぱい女性革命兵士たろうとした永田のしたことだった。(P111)

 対抗暴力は、支配権力とのその圧倒的な非対称性において、過大な自己犠牲を要求するために、心情倫理的にロマン化され、その担い手がヒーロー視される傾向がある。目的も手段も正しくはないが、気持ちは純粋だ、というように。この誘惑に抵抗するのはむずかしい。(P113〜114)

 したがって同一化の理論から言えば、「被害者である」というよりは、「被害者になる」と表現したほうが正確だろう。そしてその響きに反して、「被害者になる」ということは、弱さを認めるということより、むしろ加害者に対して自分の正当性を主張するエンパワーメントなのである。(P122〜123)

 暴力は必ず犠牲者を生む。自死が犠牲を相殺するテロリストの倫理である(と、当事者がごつごう主義的にも考えている)ことは、先に述べた。自爆テロで犠牲になるのは、自分自身である。だとすれば、暴力の被害者になるのは、まずそれを行使する者自身であるとは言えないだろうか?暴力を行使する者は、そのことによって暴力のシステムに組みこまれる。犠牲者が他人であっても、自分自身であっても同じことだ。暴力のシステムに主体化=服従することで、彼/彼女は暴力の犠牲になり、自分自身が被害者であることを通じて他人に対して加害者となる。「殺す者」は、いつでも「殺される者」となる。「殺される者」にならないためには、彼らは「殺す者」にならなければならない。国民軍の兵士であれ、革命兵士であれ、兵士とは、まず第一に自己犠牲に合意した者たちの集団ではなかったか。したがって兵士もまた、というより兵士こそ、誰よりもまず、暴力の被害者である。(P131)]

(Ⅰ女性兵士という問題系 3対抗暴力とジェンダー)


[「個人的なことは政治的である」というフェミニズムのスローガンは、四半世紀にわたる洗練を経て、今や「私的な領域とは公的に作られたものである」という命題に至っている。公的な領域とは、いうまでもなく政治、すなわち公的権力の領域である。そして私的な領域が公的に、すなわち政治的につくられたということは、私的な領域には私的な政治が、したがって私的な権力が存在することを示唆する。公的な領域の大文字の「政治」ばかりが、政治ではない。フーコー以後、権力は身体や言説に係わるミクロの政治をさすようになった。

 そうなれば私的な領域とは、公的な権力の介入を拒否する「聖域」、すなわち私的権力が支配する「聖域」であって、だからこそ私的権力が公的権力の統制なしに横行する「無法地帯」だと言ってもよいのだ。

 わたしが解きたい謎は、この公的権力と私的権力の結託の共犯関係が、いかに成り立ったかということである。だが、この謎も種明かしをしてみれば、たいした謎ではない。両者は家父長制的な権力のふたつのあらわれとして、首尾一貫性を持っているからだ。

 公的な権力は「男性同盟」[Tiger1969=1976]のホモソーシャルな関心から合意形成され、他方、私的な権力はその男性同盟の正統な成員の資格を持った者たちに、権利として保障されたものである。「ホモソーシャル」という概念は、ホモセクシュアルと区別してセジウィック[Sedgwick1990=1999]によって定義され、ヘテロセクシュアルな男性性を分析するための強力なツールとなった。男性同士のあいだにあるホモセクシュアリティを抑圧する(ホモフォビア)ことをつうじて、ヘテロセクシュアルなな男性は互いの同一性の絆(ホモソーシャリティ)を確立する。そしてヘテロセクシュアリティとは、客体の位置におかれた女性を、お互いのあいだに配分するための制度なのである。(P140〜141)

 そう考えれば、私的な暴力とは男性性の定義の中にねぶかく組みこまれていることがわかる。わたしは長いあいだ、「暴力をふるう夫」が「暴力をふるわれる妻」にくらべて、なぜ社会的にも個人的にも病理化されないのか、疑問を持ってきた。心理学やカウンセリングのなかでは、暴力をふるわれながらその状況から脱けだせない妻が、「共依存」の名のもとに病理化されてきた。もしかしたらそれは「心理の病」ではなく、たんに「離婚しなくてもできない」という「制度の欠陥」にすぎないかもしれないというのに。(P144)

 プライバシーとは、市民社会が男性に与えた市民的特権であった。近代の曲がり角に立ったわたしたちは、近代を延命するようなどのような動きも反動的だと宣告する。市民的特権としてのプライバシーは終わったし、解体されるべきである。ただし、それが私領域のさらなる国家化を招くことだけは、ごめんこうむりたい。(P147)]

(Ⅰ女性兵士という問題系 4プライバシーの解体)


[ 戦争は過程で、平和は状態だ、と中井さんは言う。過程はいったん動き出したらとまらなくなるが、状態は不断のエネルギーで維持しつづけなければならない。それもあらゆる退屈と不平、不満、空虚に耐えながら。こんな作業がおもしろいはずがない。だから、戦争のプロパガンダの前に、平和運動はしばしば敗北してきた。

 戦争は魅力的だ。実際の戦争はともかく、少なくとも戦争へとわたしたちを動員することばには、抗しがたい魅力がある。そのことは知っておいたほうがよい。平和を維持するには、その悪魔のささやきのような魅力の罠にはまらないように、耳ざとく臆病なウサギのように、ずるがしこいキツネのように、いつでも敏捷に警戒を怠ってはならない。中井さんはそう、わたしたちに警告を発しているように思える。自分の持ち時間が少なくなったと自覚して。(P156)]

(Ⅱ戦争の犯罪化 1戦争は「魅力的」か?)


[ 「どのような暴力なら、どのような条件の下で免責されるか」、という問いは言いかえれば、「正義の暴力はあるかないか」という問いに答えることにつながる。これに対するフェミニズムの答えは、一つしかない。それは「正義の暴力はない」という答え、すなわち「あらゆる暴力の犯罪化」である。それには、公的暴力の犯罪化とともに私的暴力の犯罪化をも含んでいる。最近になってようやくDV(ドメスティック・バイオレンス)が問題化されるようになったように、私的領域で非犯罪化されてきた暴力を犯罪化する動きに、フェミニズムは一歩を踏み出した。(P195)

 フェミニズムはあくまでマイノリティの思想であったとわたしは思っている。マイノリティというのは、この世の中でワリを食った、差別を受けた、弱者の立場に立つ人々のことである。フェミニズムは「女も男なみに強者になれる」と主張してきた思想ではなく、「弱者が弱者のままで尊重される思想」だったはずだ。(P197)

(Ⅱ戦争の犯罪化 3フェミニズムから見たヒロシマ)


初めて読んだ学生の頃よりも、より一層内容が滲みてくるようになった。今まさに、変化の狭間で膿のようにいろんなものがふきだしている。

そんななか、本書は考え続ける補助線として機能してくれている。

感想文(2022年8月)

秋雨前線と台風から始まった9月。九州からジュン・チャンです。今回のは長いです。

【2022年8月】

(映画)

① 満若勇咲監督『私のはなし 部落のはなし』

(本)

峠三吉『原爆詩集 (平和文庫)』

② ルーシー・M. ボストン/亀井俊介 訳『グリーン・ノウ物語〈1〉グリーン・ノウの子どもたち (児童図書館・文学の部屋)』

③ 辻村 深月『ツナグ (新潮文庫)』

④ 加藤有子『ホロコーストヒロシマ――ポーランドと日本における第二次世界大戦の記憶』

⑤李 琴峰『彼岸花が咲く島』

⑥くどうれいん『氷柱の声』


【所感】

(映画)

① 満若勇咲監督『私のはなし 部落のはなし』

部落問題について関心を持ったのは、高校生の時だった。くるくる天パの日本史の先生が溢れ話をしてくれて、それから気になっていたが、もともと身近に部落がなかったためか(もしかしたらあったのかもしれないが、関西よりも東北は少なかったというのは何かで聞いた)、歴史的背景はなんとなく理解しつつも、現状はよくわからないまま大人になってしまった。

それがまた身近になったのは、就職してからだった。組織柄もあってか、新卒向けの説明会で同和問題についての時間があったのだ。また、初任地が関西だったことから、部落問題に限らず、在日朝鮮人への差別、貧困問題について、ほんの一部だが見聞きすることになった。

本作は3時間以上に及ぶ上映時間だが、観終わったらあっという間だった。観ていて思ったのは、監督による主張・軸が薄く感じられたことだった。

が、エンドロールに載っていた参考文献を見て見方が変わった。人は知りすぎると身動きが取れなくなることがある。そんな中で、自分の選択・行動を左右するのは、目の前で起きているリアルな出来事だ。本作では、部落出身者、部落の傍らにあった住人等、広く語りを集めることで、ただひたすらに今ある差別の現実をつきつけている。いとうせいこう『福島モノローグ』を思い出した。この本は、ひたすらに被災した女性達の語りのみを掲載したものだった。

映画では、10代の若者が語り合う場面で、差別的な発言を受けた場合の耐性づくりについての語りがあった。何で読んだのか定かではないが、津波原発による被害に遭った福島では、将来差別的な発言をされた際に、子どもが冷静に説明できるように教育している取組があった。いつも「耐性」を強いられるのは、差別される側だ。不均衡以外のなんでもない。

作中、鳥取ループ・示現舎合同会社代表である宮部氏への取材場面もあった。鳥取ループ・示現舎による「部落地名総鑑」出版とネット公開については、自分は前職の研修で知り、直感的に背筋が凍りついたのを覚えている。作中、質問に答える宮部氏は、自身の論を一見すると論理的に話しているようにも見えた。

しかし、実際に継続しているネット上を中心に拡散し続ける差別発言や、今後自身が受けると想定される差別について悩む10〜20代数人の語りを目の当たりにした時に、宮部氏の時に熱い語り口は、状況を面白がっているかのようにも見えてしまった。おそらく、この視聴者からの見え方について、宮部氏としては映像製作者の恣意性を問うことだろう。あるいはそこまで納得して出演したのか。正直、出演についてはちょっとびっくりした。

差別はなくならないだろう。特に日本では。それでも、臭い物に蓋をしたままではいられない。知ってしまったからには、もう知らなかった時には戻れない。

 

(本)

峠三吉『原爆詩集 (平和文庫)』

被爆者の体験を語り継ぐツールとして、紙芝居が多いことは知っていた。自分が何かできないか考えた時に「詩集もあるのではないか」と思い、図書館で調べたら本書と出会った。

広島の原爆投下直後を表したと思われる詩から、徐々に戦後の様子を描いた内容へとシフトしていく。

自分は中学生の時に、受験対策で半年間通った塾で、なぜかある講師が原爆投下直後の話をしてくれた。その時に聞いた、被爆した身体の状態について、今でも覚えている。講師から聞いた内容がまざまざと思い出される詩だった。言葉にならないくらいに、むごいことだ。

そんなむごい経験を無視して、核兵器を持つべきだ、原発再稼働だ、と言う議員や有識者、一市民は、本当に未来世代のことを考えているのだろうか。目先の利益や勢い、雰囲気に乗っかるのではなく、調べて、考えて、現実的かつ持続可能な方法を見出していくべきではないか。戦争文学は、今を生きる私達の照射だ。


② ルーシー・M. ボストン/亀井俊介 訳『グリーン・ノウ物語〈1〉グリーン・ノウの子どもたち (児童図書館・文学の部屋)』

上橋菜穂子先生が幼少期に読み、影響を受けた一冊。やっと読んだ。同じイギリスの児童文学でも、サトクリフの『太陽の戦士』とはまた毛色が異なる作品だった。主人公が休暇を過ごす祖母宅での、不思議な、けれど穏やかな日々を描いている。実母を亡くした主人公の、静かな成長が垣間見れる。描写の一つ一つが繊細で丁寧だ。もっと余裕がある時に、じっくり味わって読みたい。


③ 辻村 深月『ツナグ (新潮文庫)』

去年異動した後輩の置き土産。その後輩は何気なく素敵な本のチョイスをするなあと、本書を読んでしみじみ思った。丸っと一日ゆっくり読める日があって、一気に読んだ。生者と死者を繋ぐ者、「使者」と書いて「ツナグ」。死者への面会を望む生者、面会を引き受ける死者、そしてツナグをめぐる物語。消費の象徴のようだが正直に言う、「長男の心得」「待ち人の心得」で鼻垂らして泣いた。

一方で、「親友の心得」ではヒヤッとさせられた。最後に配置された「使者の心得」で補足がなければ、モヤっとしたままの読後感で終わっていただろう。

印象に残った最後の部分を抜粋する。

[ 失われた誰かの生は、何のためにあるのか。どうしようもなく、そこにある、逃れられない喪失を、自分たちはどうすればいいのか。

 嵐は多分、それでも御園によってあそこに立たされていた。御園がもし、生きていたら自分をどう見るか。彼女は多分、失われた親友の目線をずっと自分の中に持つ。たとえ彼女がもう消えて、一生会うことができなくても。

 雨の中に立つ平瀬愛美の中にも、だとすれば今、水城サヲリの影がいるのだろうか。アイドルってすごい、と洩らした感嘆の声を内に持ちながら、彼女にあり得たかもしれない生を代わりに生きる。

 それは確かに、誰かの死を消費することと同義な、生者の自己欺瞞かもしれない。だけど、死者の目線に晒されることは、誰にだって本当は必要とされているのかもしれない。どこにいても何をしてもお天道様が見てると感じ、それが時として人の行動を決めるのと同じ。見たことのない神様を信じるよりも切実に、具体的な誰かの姿を常に身近に置く。

 あの人ならどうしただろうと、彼らから叱れることさえ望みながら、日々を続ける。(P414)]

辻村深月、短く、静かだが圧巻の物語だった。


④ 加藤有子 編『ホロコーストヒロシマ――ポーランドと日本における第二次世界大戦の記憶』

毎年このくらいの時期になると、図書館でちゃんと歴史認識の新着図書が並ぶことに、僅かながら希望をかんじている。

本書では、2018年に行われた国際シンポジウムを基にして、ポーランド、日本の研究者、著述家による、社会的記憶をめぐる論考がまとめられている。編者による序章において、本書の問題意識や目的がまとめられているので、長いが抜粋する。

[自国側の加害の事実の浮上とその認識の定着、それに対するバックラッシュという歴史認識の基本的流れと記憶のポリティクスの問題は、現在の日本とポーランドに共通している。(P2)]

[このように、第二次世界大戦の出来事の社会的記憶は、単一の出来事の記憶としてではなく、相互に絡み合い、冷戦期から今日まで、国際的、国内的政治空間のなかで変容している。ホロコーストヒロシマをキーワードにすることで、第二次世界大戦の記憶を冷戦期からソ連解体・東欧の体制転換後の変化も踏まえ、日本も含めて国や地域を越えた相関性のなかに捉える糸口になるのではないかと考えた。(P3〜4)]

[本書が目指すのはホロコーストと原爆という二つの出来事の比較ではなく、その犠牲の度合いや性質の比較でもないことは、誤解のないよう強調しておきたい。比較のさいの焦点はその関係性であり、さらに個々の論考を通して浮かび上がる出来事の記憶や言説、その構築のプロセスとメカニズムにある。(P4)]

[本書の目的は三つある。第一に、ポーランドにおけるホロコーストをめぐる現状と最新の研究を紹介すること、第二に、日本におけるホロコーストヒロシマ、そして日本の侵略と植民地支配に関わる出来事の記憶や語りをめぐる状況を日本以外に視野を開いて分析すること、第三に、それらを通して、ポーランドと日本の記憶の現状の類似性を浮かび上がらせ、アジアとヨーロッパにおける第二次世界大戦の記憶の比較研究の視野を開くことである。(P5)]

[(中略)表現の自由や検閲の問題として、美術、文化行政、法学など、さまざまな領域で議論が展開されたが、核にあるのは日本の侵略戦争と植民地支配の歴史と戦争責任をめぐる歴史認識の問題である。それが二十一世紀の日本において、依然として、あるいはいっそうタブー化されて、公的言説から排除されている現実が明らかになった。現在起きていることを点ではなく、線として浮上させるためには歴史的視野が不可欠である。本書は中長期的な視野で歴史認識問題の現状を考える論考を含み、こうした状況に対する学術界からの応答のひとつとも言える。ポーランドの事例との比較は、日本の現状を考える手がかりにもなるはずだ。(P23)]

[ ポスト植民地主義時代と言われて久しい今もなお、偏狭なナショナリズムは旧来の二項対立的な優劣の枠組みにもとづく思考のもとに、人種差別や性差別と容易に結びつく。そして、「他者」と認定した集団や個人にレッテル張りをし、その存在を否定し、その人格や権利を否定する行為をさまざまなかたちと規模で正当化していく。それが国家の方針と一致した結果が、第二次世界大戦およびそれに至る日本の戦争のなかでの市民の殺戮や性暴力であった。修正主義の生成の検証と現在進行形の動きの注視、政治的動きに対する学術的視点からの批判的検討は、世界各地で稼働する差別的思考にもとづくこのメカニズムを抑制し、解体し、未然に防ぐための行動でもある。(P30)]

 自分が近年感じてきた問題意識とも一致する内容だった。日本で生じている状況だけだと視野が狭まるが、本書を通して俯瞰してみることができた。

 以下、大事な示唆だと思った箇所をメモ。

[(中略)こうしたら比較的長い歴史を持つ議論の系譜を意識しつつ、私はここで、「社会的記憶」としての「戦争の記憶」を、過去の戦争あるいはその中での出来事について形成された「社会的表象」の全体、と理解しておくことにしたい。それは、過去の戦争について後の世代がどのように知り、想像し、語っていくのか、ということによって形成される。(P165〜166)

 (中略)私たちは戦争や戦争中の出来事について、直接の記憶をもつ人の証言からだけでなく、テレビや映画のドラマやドキュメンタリー、ジャーナリズム報道、資料館や博物館の展示、文学作品、歴史書や歴史教科書、等々のさまざまな媒体から情報を取得し、各人それぞれの表象を形成するが、それらが全体として集まって、戦争や戦争中の出来事についての社会的表象を形成する。それを当の社会がもつ「戦争の記憶」と呼ぶならば、それの「継承」という課題とは、私たちがどのような社会的表象を形成し、伝えていくのが望ましいのか、という課題だと言うことができよう。(P166)

(第二部 記憶のポリティクス 高橋哲哉「第5章 戦後七〇年を超えてー現代日本の記憶のポリティクス」)]

[ 日本において、アウシュヴィッツに象徴されるホロコーストが頻繁に言及される理由には、もちろん日本が直接の加害者ではない語りやすさもあるだろう。しかし、その語りやすさは日本軍の加害行為(南京虐殺のほか、七三一部隊など)のタブー化によって裏打ちされ、強化されるものだった。一九六五年から九七年まで続いた家永教科書裁判が広く知らしめた教科書検定のように、そのタブー化とタブー化による忘却は政治レベルで行われた。加害の後景化はもちろん、その責任主体や天皇の責任問題の後景化とも表裏一体である。このように、平和運動におけるホロコーストの前傾化は、市民側の動機の問題ではなく、戦後日本の歴史認識の問題に関わっている。タブー化と語りの回避によるいわば受動的な修正主義が戦後、静かに進行していた。その性質が変わり、顕在化するのが一九九〇年代である。(P255)

(中略)

 ヒロシマアウシュヴィッツを並置する冷戦期の平和主義的言説は、時に南京を加え、日本の加害の過去も視野に入れて展開した。しかし、二〇〇〇年代に入って、南京が象徴する日本の加害の歴史が公的言説から排除されつつある。「ヒロシマアウシュヴィッツ・南京」という並列から南京が抜け、「ヒロシマアウシュヴィッツ」という犠牲に焦点化した二項的連想が定着していく。それでもなお多方向に参照先をもつはずの平和主義的標語の「ヒロシマアウシュヴィッツ」は、皮肉にも今日、日本の加害が忘却され、消去されつつある日本の修正主義的現状を映し出す、二義性を帯びた標語になっている。(P259)

(中略)

ヒロシマアウシュヴィッツ」の平和運動の語りは、市民の被害と苦しみに焦点化しながら、「私たち」を主語に戦争とその出来事を二度と繰り返さないことを誓う行為遂行的な語りである。それは連帯を可能にし、現在と未来の行動を方向づける一方、出来事の生起の因果関係と責任主体に触れることを回避する。本稿で取り上げた平和運動は、日本の侵略と加害を念頭に活動しており、それゆえに国際的に受け入れられた。それでも、被害の焦点化と「被害者」の一元化によって、ナチのユダヤ人政策や対外政策を支持した枢軸国としての日本の間接的な関与と加担、総力戦遂行を可能にした日本国内の状況、弾圧された反対派という内的被害者の存在などが、後景に退いてしまう。特定の歴史的出来事を扱いながらも、その語りは逆説的に非歴史的で非政治的な性質を帯びている。(P260)

(中略)

 戦中の日本の外交文書では、「世界平和」が国是として、対外進出の根拠として頻用されていた。「核の平和利用」においても、「平和」という言葉は利用された。近年でも国家の武力行使の場において、平和をその理由に挙げる例には事欠かない。「戦争」と「平和」が二項的に対置される言説への慣れのなかで、「平和」が多様な文脈で使用された歴史も忘却されている。「平和」という言葉が、視点の取り方であらゆる行為の正当化に転用されうることも踏まえ、平和主義的言説を読み直し、今後のその変化を歴史的に捉える必要がある。(P262)

(第三部 ホロコーストと日本、世界とヒロシマ 加藤有子「第8章 日本におけるホロコーストの受容と第二次世界大戦の記憶ー「ヒロシマアウシュヴィッツ」の平和主義言説」)]

[ 「犠牲者を人間とは見ないことで自分自身が人間でなくなる」という堕落、そしてそんな「堕落」を周囲が、あらかじめであれ、事後的にであれ、容易に赦してしまうという連鎖を断つこと。「被害者」をなくすためには、「人間」を「加害行為」へと導いていく条件を丁寧に可視化していくことから始めるしかないように思う。(P304〜305)

(第三部 ホロコーストと日本、世界とヒロシマ 西成彦「第9章 処刑人、犠牲者、傍観者ー3つのジェノサイドの現場で」)]


⑤李 琴峰『彼岸花が咲く島』

読書記録によると、昨年8月にも、自分は著者の作品を読んでいたらしい。

著者のこれまでの作品とは異なり、仮想の島を舞台にした話というのは聞いていたが、ファンタジーと呼ぶにはあまりに社会的だった。いや、ファンタジーというものが、ある意味では社会的なんだが。

著者のこれまでの作品を読んでから読むと、問題意識を含め楽しめる。そういう意味では、他の作品ともある意味繋がっている作品だった。

最後の2人の決断は、どんな未来に繋がっていくのだろうか。


⑥くどうれいん『氷柱の声』

つい最近まで、「自分なんかが語ることではない」という感覚、「生き残ってしまった(なぜ自分なんかが)」という感覚があった。少なくとも大学生の頃までは顕著だった。語ることを躊躇ってきた自分が語り出したのは、2019年に別府へ流れ着いてからだった。それくらい、時間が必要だった。

以下に、著者のあとがきを引用する。

[ 書き終えて感じたのは「震災もの」なんてものはない。ということだ。多くの方が「話せるほどの立場」ではないと思っているだけで、二〇一一年三月十一日以降、わたしたちの生活はすべて「震災後」のもので「『震災もの』の人生」だ。どこに暮らしていたとしても、何も失わなかったと思っているとしても。だから、この作品は「震災もの」ではない。だれかの日常であり、あなたの日常であり、これからも続くものだと思う。(P119)]

自分はいつか東北に戻るのだろうか。