次に呑む日まで

呑める日が来るまでの往復書簡

第五便 返信

お久しぶりです、タカシナです。
暖かくなったらテキメンに喉まわりの調子が良くなってきて、自分でも笑ってしまう。乾燥は私にとっての強敵のようです。
ジュン・チャンがこれまでの書簡を読み返した、と言っていたので私もそうしてみた。一便めに書いたこととかもう完全に自分でも忘れていたので少しくすぐったい気持ち、既に過去だね。過去の手紙を箱から取り出して読み返している気分。その時々に思ったことを取り留めなく書く、という行為が後々読み返す楽しみも生むとは、私にとってはあまり考えていなかったことで、いわば棚からぼた餅というやつです。ああ、生協で買ったおはぎをそろそろ解凍してお供えしないとお彼岸が終わってしまう。日々は生活として忙しなく過ぎてゆくね。

 

第五便を読んで、しばらく、返信を書けずにいました。
ジュン・チャンが写真で載せてくれた文章を読み、打ちのめされていた。
まず、冬の深夜の冷え切った空気みたいな、さえざえとした、読んでる間中喉元になにか突きつけられているかのような切迫した印象の文体のことを思った。それは、当時のジュン・チャンにとっての真実しか書いていない文章だからだろうとも。そして、18歳にこのような文章を書かせた経験のこと、私が出会った時点でジュン・チャンが立っていた地点のこと、などを思った。この時期になる度に思うけれど私はずっと、震災のことから逃げてきてしまっているから、何も言えない。言えないなと思って、そのまま、返信を放っておいて、11日も過ぎて、今になってしまった。ごめんなさい。この期に及んで逃げている、自覚はあります。

 

経験していない苦しみに対しては、なにも言うことができない。本当に、ジュン・チャンの言うとおり、「寄り添い見守るくらい」しかできない。でも本当は、もっと知るべき事はあるのだとも思っているんだけど、これは私の怠慢の話だな。
ああ、私のような人のためにジュン・チャンは『この世界の片隅で』のような活動をしているのだね。分かったような気がします。
ツイキャスに残してくれた朗読の練習の履歴を寝る前に聞いているんだけどすぐ寝入ってしまうからなかなか通して聞けなくて、と以前LINEで話したあれは半分本当で少し嘘です。最初にツイキャス音源の存在に気付いたとき、『捜す人 津波原発事故に襲われた浜辺で』の朗読のうちひとつをぱっと再生して、少し聞いて、すぐに内容のつらさに参ってしまったから、これは昼間には聞けないと思ってそれで寝る前に聞くことにした。私が自分の弱さを嫌になるのはこういうときだ。だって否応なしにその現実にさらされているひとがいるのに私は逃げることができるから逃げるって、そんなのずるくないか。そう思うけど、昼間にはやっぱり聞けなくて、深夜に聞いている。


山脇さんの詩集読みたいです。送るよっていってくれたけど甘えていいのかな。逆に私も読み終わった川上弘美のなんかうねうねしてやばい小説を送りつけようかな。送料という概念ね。


そうそう、「伸ばされた手を掴むことより、手を伸ばすことのほうが難しいのかも」のくだりを考えるきっかけになったのは、『少女革命ウテナ』というアニメです。
というか先述の言い回しはあまり正確ではないな、と読み返して自分で驚いたのでより丁寧に言うと、「誰かを救うために手を伸ばすことより、救われるためにその手を掴むことのほうが難しいし、救いを求めて手を伸ばすのはもっと難しい」というのが、私の言いたいことだったように思う。まったく雑な言葉でごめんなさい。
つまり、救いを与える側と救いを求める側ならば、場合にもよるけど後者の方がより高い心理的ハードルを課せられているのではないか、ということ。私には、助けてほしいと手を伸ばすのが簡単な行為には思えなくて、それよりは助ける側に回る方がいくらか楽なんじゃないかなあ、と、そんなひねくれたことを考えていた。非対称性、優位性の問題かな。


昨日LINEしていても思ったけど、自分を無意識にマイノリティ側に入れて考える癖のあることに自覚的にならないといけないな、という自戒とも通じるかもしれない。
私はある属性においてはマイノリティなのかもしれないが、別の属性ではマジョリティ側にいて、だからこそ、マイノリティの顔をした自分のふるまいが無意識的にマジョリティとしての暴力を帯びていないか、考えないといけないな、と。そしてマジョリティはすぐに弱者としてのマイノリティを「助ける」みたいに言いたがるけど、それってどうかな、助ける側に立ちたいからじゃないのかな、とか。
『こんな夜更けにバナナかよ』を読み返す時期なのかもしれない。


終わりに、私が語りたいだけの『少女革命ウテナ』の大好きなシーンの話を(未見の場合に備えネタバレを避けて)します。
ある人はいま、目の前にいる人からまっすぐに救いの手を伸ばされている。この手を取ってくれと懇願されている。だけどその人は、自分が手を取れば相手が取り返しのつかない犠牲を代償に払うことになると知っている。相手は己の身に降りかかる代償のことなど知らないがとにかく、自分の全てを捧げてでもその人のことを救いたいと一念に思っている。その思いも分かるからこそ、「あなたを犠牲にしてまで救われたくはない」「でもあなたが望むのは私がこの手を取ることだ」というジレンマから、その人はボロボロと玉のような涙を流す。この涙の描写がものすごく印象的で、これは相手が犠牲になることを利用してでも自分が救われることを選ばなければならないがゆえのつらさなのだと思った。救う方と救われる方ならどちらがつらいのか、なんてことを考えるようになったきっかけのシーンだ。大変抽象的なアニメであり、これもあくまで私の解釈ですが。


往復書簡の往路と復路、両方経験してなるほどなるほどとなりました。書き出す方と受け取る方では違った意識になるね。
もしよければ、つぎはLINEでじゃんけんでもして勝った方から書き始めて、それ以降は交互に書き初めを担当、とかでどうでしょう。


暖かくなるまで生き延びる、という短期目標はおかげさまでなんとかなりそうな気がしてきたので、次の目標は夏まで生き延びる、ですね。茗荷をたくさん食べる。

第五便

2月はあっという間に走り去り、3月。

気温が上がったり下がったり、雨が降ったり。年度末の慌ただしさも加わって、ちょっとぐったりしていたジュン・チャンです。

今週末は、別府のお魚大臣(※料理人の友人)のご飯で、エネルギーチャージした。タカシナは息災か。

 

タカシナから第四便の返信をもらった時点で、今までの往復書簡を全部読み返してみた。読み返してみると、通底しているものがある気がした。我々は、自分達が感じてきた「生きづらさ」「でも、どうしようもなさ」を言語化し考察している。まさに政治的活動だ。

そして、第四便では対話という実践法の難しさに触れた。理解しあおうとする、というのは、お互いに痛みを伴う。

対話の先、思考や行動にまで変容をもたらせるかは、本人次第だ。どうやったらここまで行き着けるか、僕は「自分ごととして、身近なものと想像し得るか」だと考えている。逆に言うと、自分の弱さに気づかない限り、想像すら難しいのかもしれない。

 とは言いつつ、タカシナが第四便の返信で書いていた[もしかしたら、伸ばされた手を掴むことより、手を伸ばすことのほうが難しいのかもしれないね。]という一文が、なんか残ってる。気づいていても、下駄を脱ぐ勇気を持つことは大変らしい。『違国日記』の笠町さん思い出した。

 

身近なもの、という言葉で浮かんできたけれど、僕にとって3月は死が近い。毎年この時期になると、日常の慌ただしさにあっても、ふと脳裏をよぎる。

17歳の時に青森で被災したこと、数年前に祖父が亡くなったことが大きい。

前者については、上京したての18歳で書いた文章が、当時の心境を正直に言い現しているので、以下写真にて掲載する。

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去年の11月、片付けていた時に発掘した。なんとはなしに読んで、とてもびっくりしたのを覚えている。

ちなみに、毎年定期的に持ち物の見直しはしていて、この文章もその度に読んできてはいるわけで。

それなのに、本当にすっごいハッとさせられた。18歳の自分が、こんなにも苦しんでいたことに。かと言って、今は苦しんでいない、というわけではないけれど。当時と比べると、呑みこめてきているのかな、とは思う。18歳の自分と相対したとしても、僕には何もできないだろう。深い苦しみを抱えた人に、周りができることなんて、寄り添い見守るくらいだ。

川上未映子『夏物語』が衝撃作品だった理由は色々あるけれど、僕はタカシナが指していたある人物と、全く同じ考え方を自分に対してしている。僕は彼女と違い、直接的な性暴力を受けたことはないけれど、自分が生まれてきたことも、生きてしまったことも、どこか認められない10代、20代前半を過ごしてきた。

それでも、大学でやってきた問答を、学舎を出たこの5年間も続けてきた結果、自分の中で色々なものが繋がり、腑に落ちてきた感覚がある。その感覚を得た時に、僕は生きていく責任を痛感した。何も知らなかった時には戻れない。

 

2019年、コロナ禍で騒つく初夏に、山脇益美さんが初の詩集『朝見に行くよ』を上梓した。山脇さんとは別府生活1年目で知り合い、話す言葉の雰囲気に僕が惚れ込んだ。

詩集のあとがきを読んで、自然と涙が出た。傷つくことも、傷つけることもまるっと包み、生きていいんだ、と言ってくれているようだった。

そして、この半年間を振り返り、収録作品の中で「モーニング」が自分としみじみマッチしてくるのだった。

第四便に書いたみたいに、かなしいこともあったけれど、別府に来て、人に出会って、僕は救済されたんだなあ。

『朝見に行くよ』学級文庫普及計画を画策している。

京都の喫茶フィガロ冬の文化祭2020で公演した動画、ぜひ観てね。

 

声に出す×揺れる『I see you, I see me』
原作 山脇益美詩集『朝見に行くよ』
アーカイブ①】
https://twitcasting.tv/89mytakta/movie/658678783
アーカイブ②】
https://twitcasting.tv/89mytakta/movie/658682620
アーカイブ③】
https://twitcasting.tv/89mytakta/movie/658686743

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詩集読みたかったらプレゼントするから、LINEしてくれ。

 

ま、そんなわけで。

あれから10年近く経ったいま、自分にできることを考えて、特にできることもないので、やっぱ政治的活動をすることにした。

肚決めて、生きるしかない。

 

『この世界の片隅で』

2021年3月11日(木)
 於 カレーやMOMO

【第一部】
・14時〜14時半
 廣瀬正樹『捜す人 津波原発事故に襲われた浜辺で』より抜粋朗読

・14時半〜
 フリートーク、途中退店可

【第二部】
・19時〜19時半
 いとうせいこう『想像ラジオ』より抜粋朗読

・19時半〜
 フリートーク、途中退店可

【料金】
ワンオーダーをお願いします。

【参考】
『想像ラジオ』冒頭
https://twitcasting.tv/89mytakta/movie/667665580

『想像ラジオ』第四章
https://twitcasting.tv/89mytakta/movie/670489505

『想像ラジオ』第五章
https://twitcasting.tv/89mytakta/movie/668002848

【予約状況】3月7日時点
14時の回3名、19時の回5名

【企画】白米炊けた。

 

タカシナ、ツイキャス配信したら聞く?

第四便 返信

返信って初めて書くから緊張するな。 
タカシナです。

「相手を尊重する」ことについて、ジュン・チャンは、自身のジェンダーに関する実感を例に話してくれたね。私も自分の根っこにあるジェンダーの話をたぶん、ジュン・チャン相手にならいくらでもできるのだけど、今回はそうではなく、また別の側面の話から始めようと思う。

私の両親は身体障害者だ。*1私とその事実とは、つかず離れずしかし切り離せずのつきあいを26年やってきた。

ジュン・チャンの言っていた、「この人は自分を理解してくれている」と信頼していた相手から価値観や考え方を踏み躙られるという経験、私は障害者差別に関して何度も似た場面に直面してきたように思う。

他のことに関しては差別的なことなど言わなかった友人が、ふと漏らす障害者への蔑視。私が経験してきた例ではだいたい、そういうことを言うからといって日頃から差別的なことを言っているわけではなくむしろ他の差別はきちんと批判できるひとが本当に何気なくそういうことを言う。私は両親のことがあるからかそういう匂いには基本的に敏感なほうなので、あからさまに差別的なことを言えたりジョークにできたりする人には一応心で線を引いたまま友人になる癖がついている。だからこそ、この人はそういうことはなさそうだな、と思っていた人が不意にそういうことを言うと、頭がフリーズする。そこから、勿論相手は私の両親のことを知っていたらそんなことは言わなかっただろうし、世間一般には障害者ってそういうふうに見られてるものだし、私はある種この問題には過敏なのだから他人に自分と同じものを求めてはいけない、みたいな方向に脳が一生懸命回り出す。防御反応からくる擁護だし正しくないって分かってるけど私だって大切な友人をたった一言かそこらで嫌いになりたくはないのだ。でもやっぱり勝手にすごく傷付くけど。

それからまあ、「私が相手を信頼しすぎていたんだ」とも思う。でもこれは少し傲慢な考えな気もする。

中村珍『羣青』31話に、読んだときから忘れられないこういう台詞がある。

「お互いにさ、違う種類の人生を知らなかった~ってだけじゃん…。わっかんないよ、知る機会の無かったことは」

本当にそうだな、と思う。私はたまたま人より知る機会が多かっただけ。相手は、障害者について詳しく知る機会がない人生だったんだろう。それだけ。同じように私だって知らないことで、差別を行いうる。いや、もうしてしまってきただろう。なるべくなら気が付いて止めたい。少なくとも開き直らなず向き合うようにしたい。そういう高潔な知性を構築したい気がする。

これだけでは、ジュン・チャンやその周りの人を踏んづけていったやつら(私はジュン・チャンの友人なので、私の友人を踏んでいった見ず知らずのひとには敬意を払いません)をも許せ、みたいな文意になってしまうと思ったので、私の内省はここで止めます。そういう話をしたいわけではない。私はあなたが尊厳を踏まれた話に怒っています。

踏んだ奴らにその行為で奪った私の尊厳を返せ、と言いたいけど、そういう奴らは言っても分かってくれなさそうだ。この、「相手の考えを変えられない」というの、どうしたらいいんだろうね。そもそも考えを変えるなんて傲慢だし暴力的な気がして躊躇われる、が、近い関係にあるひとであれば、こちらの譲れないものを受け入れてほしいとも願ってしまう。それこそジュン・チャンのいう「相手の価値観や考え方」、これは互いに譲れないものだろう。相容れない同士でも、受け入れあえないのかな。

最近見たワイドショーで、食事の好みが全く違う芸能人夫婦がさんざそのことで喧嘩した末今はお互い食べたいものを自分で用意して、ばらばらのメニューをひとつの食卓で一緒に食べるという結論に落ち着いた、と言う話をしていた。

諸々すっ飛ばして言うなら、ガスト行ってあなたは豆腐サラダ、私はチーズインハンバーグにポテトも付けちゃう、されど仲良き、みたいにできたらいいのかも。これはマジで今考えたことをそのまま書いているので荒い理屈ですが。

問題は、私が「ガスト来てまで豆腐サラダだけとか」みたいなイチャモンを付けないように我慢できるか、ということ。さらに一歩進むなら私がめちゃくちゃ豆腐を倫理的に正しくない、食べるべきではないと思っていて、目の前で豆腐を食べられることに嫌悪感があるとしたらどうだろう(豆腐ごめん)*2。しかしそれは相手に強制できることではなく、相手には豆腐を食べる自由がある。でも、せめて私といるときは別のサラダにしてくれないかな、とか。本当は豆腐食べるのがなんでダメか理解してやめてほしいと思う。本音はそう。でも私の思う正しさを押しつけていいのか。そこで対話が手法として登場するのか。なるほど。

私には私の信じる主義のようなものがいくつかある。生まれつき選べなかったものでひとを差別するな、とか。そんなの当たり前じゃんとすら思う、しかし当たり前ではないひとには当たり前ではない。

私やジュン・チャンは、平ちゃんの観測でも言われてたようによく電話もするし、対話も嫌いじゃないほうだよね。でもだからこそ、最近は、対話のテーブルについてくれない人にどうアプローチしたらいいのかな、なんてことも考える。私に関しては、そもそも対話で何とかしようとする時点で、自分の得意なフィールドに持ち込もうとしてしまっているのかもしれない。私は自分の考えを言葉にするのが好きだし、ある程度得意なので。まあ口喧嘩は弱いけど。

私は『違国日記』がとても好きだけど同時に、あれも朝ちゃんが槙生ちゃんの言うことを聞いたり聞かなかったり反抗したり、その意味でとても健全な子であるから成り立つ物語なのであって。槙生ちゃんの言うことを、さっぱり理解しようとも思わない子やむしろ内面に取り入れすぎてしまう子なら、あの物語の均衡は崩れてしまうなあとも思う。槙生ちゃんは(本人も自覚しているように)言語コミュニケーションに特化しているので。

うまくまとまんないなあ。対話以外に分かり合う方法を私は知らないけど、対話をしてくれるひとばかりではないし、対話は苦手だ、というひととかもいるし、言葉にならない、できない切実さのことだって無視したくない。でも自分の尊厳は守りたいし、そのために対話を、言葉を武器のように使ってしまうこともある。私は最近少し、対話に懐疑的(懐疑的ですって!)な気分なのかも。というか、対話したくない、する気がない、苦手、みたいなひとにどうやったら声が届くだろうか?断絶って呼んで諦めたくない気持ちもあるのです、そこは多分ジュン・チャンと一緒。

もしかしたら、伸ばされた手を掴むことより、手を伸ばすことのほうが難しいのかもしれないね。 

そうそう、おすすめされていた川上未映子の『夏物語』、読みました。それで、テーマとして描かれていたひとつの「反出生主義」について、否定したいのにはっきり否定の理屈が編めないことに気がついて自分でも驚いている。というか、肯定否定の答えが出ない。なのでいまはとりあえずググって記事を読んでみたりしている。直感的な拒否感だけですむ話ではないし。

答えが出ないからこそずっと考えていられるテーマなのかな、とも思うけど、そう思ったそばから「夏物語」にでてくる某登場人物が思い出されて、あの人に対してそんなふやふやしたことは言えんなあ、と思ったりもする。私はあの小説を読んでいる途中から、主人公よりむしろその登場人物のことを強く意識するようになってしまった。

彼女は自分にとっての真理は分かっているけど他人に押し付けてなくてえらいなと思う。一方で彼女の真理を周りは理解しないし世界も変わらないのでもどかしいだろうな、とも。やはり彼女にあるのも諦め、だろうか。真理に捧げる生なのだろうか。 

そういえば、答えが出ない!と思うとき、思い出すことがあって。中学生のとき私は近所の学研教室に通っていた。小学1年生から中学3年生までが同じ机でひとりの先生に習うようなゆるい塾だったので、例えば「詩歌」の問題集が好きだから学年関係なく今ある分は全部解かせて欲しい、と頼むと先生が眼鏡を掛けてあちこちの引き出しからあるだけ出してきてくれる、そんないい所だった。

あるとき、その詩歌のテキストのなかに、中島みゆきの歌が引用された問題があって。永久欠番』という歌だったんだけど、是非歌詞を見てほしい。

歌詞 「永久欠番」中島みゆき (無料) | オリコンミュージックストア 

ほとんどずっと、「誰が死んだところで世界は何ひとつ変わらない」みたいな、当然にして無情なことをずっと言い続ける。この歌どうなっちゃうの、と思ってハラハラしながら読んでいくけどずっとそのトーンのまま。なのに、一番最後になって突然「宇宙の掌の中 人は永久欠番」と言いだす。私は学研の白いプラスチックの机の上でたまげてしまった。
なににたまげたかというと、「めっちゃ飛躍してるじゃん」そして「みゆきが匙投げてるんならこの問題には答えが無いんじゃないの」ということ。
私はその時点で中島みゆきの歌をいくつかしか知らなかったものの、彼女の歌詞の言葉選びを信頼していた。そのみゆきが「誰が死んだところで世界は何ひとつ変わらない」という生命の無常とその虚しさを、「永久欠番」という飛躍した概念の導入でしかひっくり返せないというのなら、これは、えらいことだ、と。そう、今思えば当時中学2年生だった私は、私自身に纏わりつく悩みとしての人の生の無常と虚しさを、みゆきに解決して欲しかったのだと思う。
けれど、もうしばらくして、むしろわざわざ飛躍してまで伝えたかったことは何か、そんなことあり得ないのに「永久欠番」と言い張るのはなぜか、と考えたとき、それはあり得ないこと込みで提示された救いなのかも、と思うようになった。大切な誰か、或いは自分という存在を失っても世界が当たり前に回ってゆくこと、それ自体は当然のことと淡々と歌いつつも、最後に見せる「永久欠番」という言葉への華麗なるジャンプ。これは、そういう現実を受け入れなきゃいけないけど受け入れたくもない人間のギリギリの抵抗からくるジャンプだと。人の生に無常と虚しさは確かにあり否定できず、それとどう付き合うかは答えの出ない問いなんだ、と。それで、私はこの歌詞とそれに伴う気付きを「たぶん真理の箱」にしまうことにした。この箱には経験と思考から得られたごく僅かなものしか入れていない。私にとっての「たぶん真理」しか入っていない大切な箱。

私はもし、この箱の中身とは違ったほうに世界?世の中?身の回り?そうしたものが進もうとするとき、どうしたらよいのだろうね。少なくとも、こういう話を変な顔せずに面白がって聞いてくれる友人がいるということは、とても幸運でありがたいことです。 

私ももうきっと会わない人たちの幸福を願う夜がある。本当は、あなたのこういうところに救われていた、みたいな感謝をきちんと伝えられたら良かったなあとも思うけど。最後だと思って会ったりしていない流れゆく人間関係のなかで、そういえば伝えられなかったなあということのほうが多くなっていく。 

最近は寒かったり暖かかったりして体調さっぱりお整いになりませんね。冬の寒さにやられていた間は「暖かくなるまで地の底を張ってでも生き延びる」という目標を立てていたので、早く完全に暖かくなってアゲアゲ桜フィーバーになってほしい。ちなみに例年に比べれば地の底を這わずに越冬できているので2021の私はいい感じかもしれないです。

*1:程度は軽いので日常に介助はあまり発生せず、力仕事がこっちに全部回ってくるなーくらいの実感でいまのとこ暮らしてます。家族の話については文章を以前『ZINEアカミミ第二号』に載っけていただいておりまして、ZINEアカミミ自体が第一号第二号ともとても面白い、ファンです、ので是非

*2:罪滅ぼしに豆腐を褒めますが豆腐は偉い、私は夏バテしたときは冷や奴ご飯しか食べられなくなるのですがそれで体調を崩したことがない、豆腐ありがとう

観察3


気圧の乱高下でやられていないか心配です。

平ちゃんです。

地震なんかもあったし、とにかく平穏であることの難しさばかり感じています。花粉やばいから目も痒いしさ…花粉症が目にくるたちなのですが、会社に行こうとするたびに茫々と涙が流れてきて、理由はスギ花粉とはいえなんだか毎朝悲劇的な気分になります。


ジュン・チャンの第四便をみて、私には実感としてわからないことだらけで。文字の上を滑ることはできるけれど…

そんなんじゃわからないよ!情報量が足りない、語り合おうよ!!

と悶えていたのでした。

あ、これが2人の言ってる「呑める日」「呑む」ってことか、もしかして。


2人、めちゃ長電話するじゃん。と、思っていたのだけど。

この前の土曜日にお昼頃地元の友達から電話きて、主にその子の好きぴ(…好きぴ)の話を夕方まで聞いたので。

タカシナとジュン・チャンの朝までになりそうな時間帯というのがみっちり感あるだけで、確かに私もそれくらいは人と話しているな、と気がついた。

車が家のガレージにあるかどうか見に行くんだって。それで、あぁ、お家にいるんだなぁと思って会わずに帰るんだそうだ。なんなら彼女は車種を好きぴ専用の代名詞として使っている(クラウンが飲みに誘ってきてさぁ、珍しくない?…みたいな)。車のことはわからない私はGoogle画像検索を味方につけつつ、全然知らんその人のことが具体的に、ほんの少しだけ実像を持って立ち上がってくる、ような気がする。


細部が知りたいなぁ。しっかりした書きっぷりに表れない細部が。私は全体を掴むのが苦手で、そういう意味では全体の設計図を描けるであろう白米の企画がきっと面白いだろうなってまた思った。くわだて。政治活動。など。


あー…


人間を好く、とか、恋愛感情、みたいなところに立脚せずに話すのがとても難しい。

これはとても悪い癖な気がする。もっと自由になりたい。


細部といえば、

タカシナから借りた『なぜふつうに食べられないのか』


読んでいる。読んでいる、なのは読み終わってないからなんだけど、『ダイエット幻想』


の方は新書なのもあってさっと読み終われたんだけどなぁ…この読めなさがなんの重さかというと、具体例の、細かさの重さだなと思う。一人一人の、最低限にせよ、体験の語りの重さ。好きで、好きだけど飲み下せない、申し訳なさにも似た気持ちがある。拒食や過食の原因として語られるものごと。親戚に太ったと言われたり、教師にからかわれたり、一つ一つの想像出来る事柄たちが、わたしには想像できない状態に繋がっていく…想像できない、が乱暴すぎるならば、正確に観測できない、というべきか、


あれ、細部を聞いたってやっぱりわからないのじゃないか。

わからなさ、引き受けて行った方がいいんだろうか、これ。

引き受けられるのかな。




観察の感想をとりあえずここまでにして、ここからは近況、追伸。


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最近近くの公園にばかり行っている。オープンエアだし。コロナのせいか公園すらも管理の感じが曖昧になってきてるのが見えて面白い。それ公園なの?ごみじゃん、みたいな。見応えがすごい。

それにしても毎週のように執拗に公園に行っている。海の近くで青春を過ごしたからだろうか?いつもそこにある広がりが安心させてくるのだろうか。いや、中高生の自分は青春というには幼すぎたような気もする。

どちらかというと私の青春は戸山公園とかにあったかもしれない、大学の隣…公園にばかりご縁のある人生だ…。

今のわたしにとっては、何だろうなぁ。こどもづれ、犬づれ、私にとってわかりやすい幸せの形をみて、闘志を燃やしているのかもしれない。



二人は最近何をみているのでしょうか。

第四便

ジュン・チャンです。

身の回りが一旦落ち着いた。これについては、タカシナと4時間電話で話した通り。朝まで生テレビになりそうで、ビビったね。話が尽きないにも程がある。いつも付き合ってくれてありがとう。

ずっと関わってきた案件に片がつき、自分でも驚くほど心身ともにスッキリした。渦中にある時は終わりなんかわかんないけど、明確に一つ線引きされた感覚が、今の僕にはある。振り返ると長かった。大河ドラマかよ。長い分、また色々な示唆を得たので、貪欲に考察していきたい。

 

さて、今回は僕の投げ掛けから始まるわけだが、森さんの女性蔑視発言や、宮城・福島での震度6の地震など、2月前半はトピックが多過ぎて、考え込んでしまった。あんまり考え込んでもどうしようもないので、個人的な実感から始めていきたい。

この1年で起こった身の回りの出来事を振り返った時に、相手を尊重しない場面に立ち会うことが多かった。相手を尊重するって、なんだか堅い表現だ。僕なりに柔らかく言おうとするならば、相手の価値観や考え方を踏まえて接することだと思う。

そのためには、とことん話し合うこと、無視せずモヤモヤと向き合い考えること、想い巡らすこと、が必要だと考える。

 

僕は性自認が男でも女でもない、と思っている。あえて用語を当てはめるならXジェンダーの類か。性的指向アセクシャルだと思うが、多分これは流動性があるだろう。

ただ、見た目がどうしても女性寄りなので、社会生活を送るなかでは女性として認識され、扱われることが多い。女性として見られることで、恩恵を受けている部分もあるが、女性として扱われることに違和感は拭えない。20〜30代の女性というだけで、男性といると関係性を問われ、結婚について囁かれるのも納得いかない。相手も含めて、それぞれひとりの人なのに。

特に、男性から女性として見られる場合はとても不愉快だ。ひとりの人としてみられている気がしない。自分に向けられるものだけではなく、親しい人に向けられるものでさえ、そう感じる。この違和感、気持ち悪さの根源は、いったいなんなんだろうね。「物じゃねえんだよ!」といつも叫んでいる。

ちなみに、地方都市に住むことになりびっくりしたのだが、自分の性的指向などを見知らぬ人に開示した時に(別に普段からオープンにしているけど)、「気持ち悪い!」と反射的に言ったオッちゃんや、「何それ?笑」と言ったオネーさんがいた。「あ、こんな風に言われるんだ」と驚くとともに、今までは理解のある環境に身を置くことができていたのだなあとしみじみした。まあ、オッちゃんもオネーさんも未知の者が現れてびっくりしたんだろうなと思う。

一方で、まともにショックを受けたこともある。僕が勝手に「この人は自分を理解してくれている」と信頼していた相手から、僕の価値観や考え方を踏み躙られるような発言をされたことがあった。タカシナならお察しかと思うが、僕はどうやら、どんな相手にも概ね同じトーンで接するため、日頃の過激と捉えられやすい発言も要因だったとは思う。とは言え、その時は呆気に取られて何も言えず、放心状態になった。その日はそのまま過ごしたが、時間が経ってからダメージが来て、とてもしんどかった。自分でも予想外にショックだった。ちょっと今はまだ向き合うのがこわい。自分が傷つくのをびびっている。

男女平等は始まりに過ぎない。目の前の人を、一人の人としていかに認識できるかが、僕らの住む社会に不足しているんじゃないか。

 

第三便や平ちゃんの観察にもあったけれど、体調の波や、脳の特徴とのマッチングミスで、うまいこと働けない人が一定数いるよね。僕はある程度知識があって、その背景を推察できるから、本人の努力不足では決してないことや、当の本人達は就労意欲が高いことも知っている。

ある人が、前述した状況の人を指して「なんで働けないんだろう」と呟いたのを聞いたことがある。僕の捉え方ももちろんあるだろうけど、疑問符というよりは蔑視を含んだトーンに聞こえてしまい、咄嗟に言い返すことができなかった。ずっとシコリのように引っかかっている。自分がきちんと話せたら、そこから対話に繋がった可能性もあるのになあ。

第三便のやりとり、平ちゃんの観察を読み返して気づいたのだけど、大人になって明らかになる不調の原因があまりに多いよね。こういうのって、我々は自身の当事者性も含めて理解している方だけれど、世の中には知らない人も、わからない人もいるだろう。

相手の主張や抱えるものを、完全に理解することはできない。でも、わからないことを前提に、わかろうと努力することは誰にだってできるはず。腹を割って話すこと、そしてそれ以上に話を聴くこと、普段の行動や言動に繋げること。相対する全人類にこれをやれとは言わないが、僕の感覚では、あまりにこの対話のプロセスを意識しない、下駄を履かされた人が多いように感じる。自分が同じ立場になる可能性を、想像し得ないのだろうか。

教育制度に上記の対話を求めたところで、変革させるには長い時間がかかるだろう。まずは大人達が、どうやったら無理解から一歩先へ進めるのだろう。

 

もう深く関わることはない人もいるけれど、僕はあらゆる友人達の前途に、幸多からんことを願いたい。自分の価値観と向き合うことは、痛みを伴う。それでも、他者を傷つけた結果、意固地にひとりになるのではなく。相手と腹を割って対話することを、疎かにしないでほしい。じゃないと、結局は人が離れていく。味気ない、虚しい人生だと僕は思う。

もしまた機会があれば、そして僕の受けたダメージが落ち着いたならば、臆せず爆弾を投げ込み、あらゆる対話を重ねていきたいと思う一方で、ほとほと自分のお人好しにも呆れ返っている。今後のスローガンは「自分を大事にしない奴まで大事にしない!」に尽きる。

でも、絶対似たことでモヤってる人はいる気がする。モヤモヤを大事にする社会問題系WSとかやっちまおうかなあ。爆竹を投げまくり価値観を揺さぶる。何の資格もないのに、無責任な試みだろうか。

観測2

こんなに晴れているのに、気圧が下り坂でバカになるね。

平ちゃんです。


ジュン・チャンがうちのユニットのTwitterを引いてくれてちょっとビビった。私と金魚の2人ユニットであったのだけど、私がすっかり自信をなくして、ついでにパスワードも無くしたので今は多分あのアカウントに入れるのは金魚(人間、同じ演劇倶楽部のOG)だけです。金魚もわたしも結婚して、毎日をやっている。二十歳の我々が見たら、どういうつもりなんだと胸ぐら掴んでくるだろうと思う。

……我々!

そうくくるのも久しぶり過ぎて、案外金魚の方から胸ぐら掴まれるかもしれない。引っ越しやがったから掴めねぇけどな。

ともかく、説明不足を補ってくれてジュン・チャンありがとう。



タカシナから本を借してあげるとラインがきて大変ありがたい。そして本の貸し借りなんて学生ぶりでときめいてしまった。

取りに行こうと住所を聞いたら、今はあまり外出できないから郵送にしようということになった。実家、一人暮らし、配偶者と暮らすこと、子どものいるひと、体の弱いひと、仕事の内容、いる場所、種々のよれたラベルで貼り分けられていることがあんまりにもくっきりわかる今般の世界だよね。結局元からあった色分けをより厳しく深くする形で、少しでもそれを超えて手を繋げるといいのだけど、裾を掴むくらいでもさ。


あー。


今ね、書かなきゃと思っていることを先延ばしています(随分とわたしは狭いところでわだかまっているな!)。

なんせ冒頭を書いてから時間が経ち過ぎて、タカシナに借りた本が届いちゃったもん。めっちゃ新聞にくるんであって、実家の祖母からの仕送り箱みたいでちょっと笑っちゃった。ありがとう、読みます。


さて。


二人が反出生主義に触れましたが、それはわたしの背中にここ3年半ほどくっついている問題です。なぜって、わたしが発達障害者で、結婚していて、いちおう今のところ、子供が欲しいと思っているから。


変な人ばかりだったし、変な人はほめるべき対象だった大学時代。

新卒で入った会社では打って変わって変な人と言われ続けています。あまりについていけなくて精神科に行き、ADHDの診断を受けて服薬しています。お薬はすごいね、あんなに溢れていた色や音や風が減って事務仕事ができます。


でもわたしは前の世界に戻りたい。


そのまま生きるのがめちゃくちゃ困難な世界に、困難なタイプのこどもを生むことになるのかもしれません。わたしが服薬をやめて困難を受け入れてまで産まないと、その子に会うことすら出来ない。


なんつーこった。


もちろん発達障害は神経のグラデーションで(って、仏の耳に念仏にもほどがあるかな)、困っちゃう側に生まれるかもしれないし、そうでないかもしれない。

診断されて2〜3年、最近はライフハックの本にハマって楽しく生活改良するくらいになってきたけど、障害というものを受け入れられない気持ちはずっとある。


あっ、ちなみに、

界隈であまりにポピュラーでお勧めするのが憚られるけど、ただ生きるのが下手ってところからスタートできる良書だなと思って珍しく買って繰り返し読んで売り払ってないのはこれ、


https://www.amazon.co.jp/発達障害サバイバルガイド-「あたりまえ」がやれない僕らがどうにか生きていくコツ47-借金玉/dp/4478108927



本当に辛い時はライフをハックするなと書いてあることが一番お勧めできるポイントだ。

この点だけは二人にお勧めしても的外れじゃないかも、と思ってる。


そうやって馴染む努力というか、社会になる努力はしてきたけれども、でもやっぱり私が私だから見られる鮮やかな景色はきっとある気がしていて、だから生まれてきたことも生むことも許されていると思ってる。だって、美しいことが一番えらいし、美しさの基準は無数にあると思うので。


1週間くらい下書きに入れてたけど、諦めて投稿します。まとまってないなぁ。


あ、春の歌私もとても好き、春が好きかは置いておくとしても。

下書きに入れながら繰り返してた曲はこれで


https://m.youtube.com/watch?v=f0uhD5UgmDU

(ドラマチック私生活 大森靖子)


アスパラをチンする間に生まれたならば仕方がないか、と言い合いたいよ。


第三便 返信

ジュン・チャンです。

僕もだいたい年2回は耳鼻科のお世話になるのだけど、今年は鼻うがいの効果か、まだ大丈夫そう。

平ちゃんの観測も加わって、立体感が増してきたね。平ちゃん主宰のコドモノチルドレン(https://twitter.com/kodomo_children?s=21)企画名が毎回好きだったなあ。言葉選びが秀逸だし、響きやすい。

 

体調不良と言われると、自分の身体のいろんな特徴(最初に「欠陥」と打とうとして、少し考えて「特徴」にした)に思い馳せる。生まれた直後、原因不明の高熱で、1週間生死を彷徨ったのが、僕の人生を決定づけたようにも思う。

小学生の時には、毎年必ず吹雪の日に冷や汗かいて嘔吐、早退。今思えば、あれは気圧とか気温差とかへの敏感さが根っこにあったのだろうなあ。大人になって、気象病の概念を知り、ちょっとホッとした。今でも、雨が降る前は頭痛がするし、気圧が低いと朝起き上がるのが億劫だし、季節の変わり目は花粉で鼻から喉までやられちまう。生活を見直してから、前よりはマシになったけど、影響がなくなることはない。

高校からは、急に生理痛がひどくなり、大学生の頃からPMSが生じるようになった。希死念慮を伴うくらいにメンタルダウンするようになり、働いてからピルを飲み始めたけど、自分の体質に合うまでは何種類か試す必要があったし、最初は飲み続ける負担が強かった。なんのために高価な薬を飲んで、痛みや気持ちをコントロールするんだろうって。今は「ちょっとは円滑に社会生活を送るため」と割り切れるようになったけど。

まだあんのかよ、と自分でもうんざりするけど、社会人になってわかったことに、心拍の特徴があった。2月になると心臓のあたりが一時的に痛むことがあって(これを不整脈と呼ぶのかも、僕はよくわかっていない)、一度検査をしたことがある。その時に、心臓の弁が通常より一つ足りず、心拍が早い(一拍ばかり足りない)こと、今は治療する必要はないこと、がわかった。あん時ちゃんと、今後の見込まれる経過を聞いときゃよかったんだけど、予想外の指摘で抜けてた。

身体も心も常にサバイブ、よく生きながらえてるなあと思う。タカシナは第三便で、体調についての箇所を以下のように小括したね。

[もっと強く生まれていたら、怖いと思うものも今よりずっと減っただろう。もっといろんな方法で人を助けたりもできたのかな。これは笑って聞いて欲しいのですが、私は本当の本当はタフに人助けできる感じの人になりたかったのかもしれない。心も身体もタフに、目の前の人を助けられるような人に。アンパンマンを心から尊敬している。彼は「タフ」とは少し違うかもしれないけど。でも、アンパンマンのように他者へ優しくあるためには、ある種のタフさは必要な気がする。]

これに対して、ポケットモンスターのエンディングだった「そこに空があるから」https://youtu.be/P3_6cdd7fvk を贈るね。「傷つかぬ者に 青空は見えない 迷い 歩むたび 生命は輝く」という歌詞が、当時小学生だった心に刺さっていて、以来ずっと心に残っている。

人は痛みを体験しないと、相手の痛みに想い馳せることが難しい。でも、タカシナがいうように、痛みの最中にいる時は、やり過ごすのに精一杯で、そんな余裕なんかないよね。心身ともに安定している時だけでも、他者の痛みに想い馳せることを、怠らずにいきたいね。それがどこかで巡り巡って、自分を救うことにも繋がるような気がする。

 

僕の卒論は扱うテーマが広すぎて、上手くまとまらず終わってしまったけど、あれから5年経った今でも、同じテーマについて考え続けているし、白米の活動にも反映されている気でいる。学舎を出た今でも、こうして一緒に考えられる友がいること、心強く思う。いつもありがとう。

「内なる優生思想」と聞いて、2020年に書いた文章を思い出し、引っ張ってきた。まずは2020年8月に考えたこと。

[れいわ新撰組議員の発言、ALS患者の死。命の選別、自己責任論に関する出来事を見聞きする度に、学生時代の授業で先輩が言っていた「生まれてこなかった方がいい命なんてない」がひたすら頭をよぎる半年だった。]

社会が不安定になると、スケープゴートをつくったり、命の選別をしたりが始まる。ドイツにおけるナチスの台頭は最たるものだったが、今も世界で、日本で、同じようなことが起こっている。

日本近現代史が専門の、大日方先生の講義をとった時、最後の講義で言われたことが脳裏に残っている。「全く同じことは起こらないが、似たようなことは起こりうる」5〜6年経った今、振り返ると、希望とも絶望ともとれる、とても重たく、今を生きる我々に委ねられた言葉だなあと思う。

また、2020年2月、雨宮処凛『この国の不寛容の果てに 相模原事件と私たちの時代』に、内なる優生思想について考えるヒントがあったので、僕のまとめを載せる。
[乱暴な分け方だけど、共通していたのは①自分も他者も「そのままでいい」と受け入れられるかどうか、②変化の早い社会構造とマッチできず、気持ち的にも行き場がない人が増えている、だと思う。①②にも繋がるが、後半ではマジョリティの当事者研究の必要性が提起されていた。自分を受け入れることから、他者を受け入れることが始まるとしたら、従来のマイノリティの当事者研究という枠組みが、行き場のない困りを抱えた微妙な層の生き方の捉え直しにも有効というのは一理あると思った。]

何かを許す、許容する、ということは、まずは自分の中にある「これは許せない」と向き合うことから始まるように思う。きっとこのプロセスは、自分の中にある「それでも絶対に譲れないもの」をも、まざまざと見せつけるのだろうね。

出生前診断は、その最たるものかもしれない。ただ、僕なんかがふと思うのは、個人の価値観と社会の価値観は、密接な共謀関係にあるのではないか、というところ。どちらかが一方的に押し付け合う構図(というのももちろんある。公害や原発基地問題など)、というよりは、相互に影響し合う可能性を持つものとしても捉えうる。だとすれば、一人一人が自身の価値観を振り返ることは、社会の大きな規範を変化させることにも繋がらないかなあ、なんて思ったり。

 

障害学を学ぶと必ず出てくるのが、医学モデル、社会モデルの考え方だ。ざっくり僕の解釈だと、社会の側、環境が障害を作り出しているという見方なわけだけど、まさに今の社会の仕組みと、発達障害の特性や精神疾患等からくる体調の波って、相いれにくい。オールマイティになんでもこなし、フルタイムで働く、それだけでもすごいハードルだもん。僕もぶっちゃけ生理前と最中は休みたい。何もしたくない。社会の仕組みが機能しなくなってきてるのを感じる。

東日本大震災を経て、変わるかと思われた政治や働き方は、あんまり良い方向にシフトしなかった、というのがこの10年に対する僕の認識だ。コロナ禍を経て、どうなっていくのか。占い界隈の人達が言うに、2021年1月に、400年続いた土の時代が終わり、風の時代が到来したらしい。個を重んじる時代に、うまいこと乗っかっていきたいし、乗っかっていってほしいもんだ。

お互い、ありのままフラフラ漂っていきたいね。

 

第四便の書き出しは僕からということで、承った。来週はちとバタバタするから、またおいおい投げていくね。

 

追伸

①そういえば今冬はホットワイン飲み逃した。シナモンが好きな僕です。僕は前回、チャンポン10杯からの記憶抜け落ちネタを晒したわけだけど、大分の友人にもネタとして共有したんだ。そしたら友人は昨日、一人で3軒目に行ってみたらしい。このご時世で他に客もおらず、静かに呑めたらしいけど、一人だと飲み過ぎてしまうから、一人で3軒目まで行くのは、3ヶ月に1回が適当だね、って話になった。そのうち「呑み方を弁える会」開催予定。

②最近の生きながらえるための音楽を紹介。

スピッツ 『春の歌』

https://youtu.be/94uxNQqmknk

スピッツ猫ちぐら

https://youtu.be/FOtgYKCB4Qo

フラワーカンパニーズ『深夜高速』

https://youtu.be/Ihjr5Xz31sI