次に呑む日まで

呑める日が来るまでの往復書簡

第八便

タカシナです。
前回は犬への気持ちを語りっぱなし投げっぱなしの暴投したにもかかわらず、ジュン・チャンがきちんと「姪」というゴールデンボールで返してくれたので素直に嬉しかったです。ありがとう。

姪っ子さん、時々写真を通じて健やかな成長具合を見せてもらっておりますが、マジで健やかな成長を見ているだけで泣ける、周りの大人たちの適切な関わりやお友達との出会いなどの環境に思いを馳せて泣く。子育てといわれるものが、人にもよるだろうけどちゃんとしんどいものだと知りつつある今、意志を持って健やかに育てられた子を見るだけでもうね。それは決して当たり前のことではなく、本人と育てる人の努力によってなされたものだから。おつかれさまです。どんな大人になるんだろうね~~~。

『急に具合が悪くなる』は二度ほど読んでいるはずなんだけど内容がきちんと頭に残っていなくて、ただただ読後の感情だけが強く残っていて、それは私がそこで語られている内容の凄まじさと言ってしまえば死の不条理さ(そもそも不条理なものであるということを忘れることで恐がりな私は何とか日々をやり過ごしているのです)、そうしたものに引っ張られてしまっているからだと思う。だから、受取勘定の話もこのように文脈の中で引用されて改めて、手触りのある理解となった。

かつて、「今現在なんの役にも立っていない自分がどうして生きていていいのか」と真剣に考え続けた日々があった。今から思えば鬱による自責の煮凝りであるが。その時、毎日毎日天井を見ながら考えて考えた末にふと思ったのは、「かつて私が誰かのなにかの助けになったことがあったかもしれない。私が将来誰かの何かの助けになるかもしれない。今は何もできなくても、過去や未来にはなにかあり得るかもしれない。その可能性によってどうにか、今生きていることも許されないだろうか」というものだった。

話があちこちに飛んで申し訳ないが(ある意味我々の普段の会話に近いね)、中島みゆきの『糸』で一番好きな歌詞は、「織りなす布は いつか誰かを 暖めうるかもしれない」という部分だ。「あなた」と「私」が「出逢う」ことで「織りなす布」、言い換えればふたりの関係性とその生み出すものは、しかし、「いつか」「暖めうるかもしれない」というように、慎重に、可能性として歌われる。
自分と相手の関係性が誰かの救いとなる、そういうことはたくさんある。けれどそうならないこともまた、たくさんある。それに、どれだけ当人たちが幸せでいても、誰かを暖める機会に恵まれないこともあるだろう。ではそれらに意味がなかったのかと言えばそうではなく、ただ成り行きがそうであったというだけ。『糸』がテーマに歌っているのはきっと運命の出会いのことなのだけど、だからといって「誰かを絶対に暖める」というようには言い切らず、あくまで判断を未来に投げ、暖めるのか暖めないのか言い切らないところが、他を、つまり運命の出会いではなかったものたちをも排除しない表現となっている。そもそも関係性の渦中にあってそれが運命かどうかなんて分からないわけで、そういう意味でも思慮深い歌詞だな、と。
という、すべて個人の見解ですが。

おそらく自己肯定感だとか自尊感情だとか、そのように呼ばれる部分に何らかのバグがある我々(と非常に乱暴にまとめてしまってごめんね)は、もしかしたら他人の未来というようなもののことならそれなりに願えるのかもしれないね。自分の未来にさしたる望みが無くとも。「受取勘定」の話からそんなことを思った。未来の不確かさ、予想のできなさを、可変性としての希望と捉えて受容する、そのために他者と関わるというのなら、それは綺麗事でなく実感として今の私には響く。

>ところで、次の話。今月、対話企画『揺らぐin別府』というのを始動する。初回のテ ーマは同性婚訴訟、レインボーパレードから、セクシャリティ、家族を取り上げる。もしよかったら、このテーマについて、タカシナの考察や所感など聞いてみたい。気が向いたらよろしく頼む。

今回の書簡は、前回の返信で投げかけられた、これに対する応答をテーマにするつもりでした。相変わらず前置きが長いね。
どんな企画なんだろうと思って、『揺らぐ in 別府』5月のイベントページを見ました。Facebookのリンクうまく張れないので、以下引用させてもらいます。

○企画意図 
社会に出て6年が経ち、安心、安全に話せる場を設けたい、と思うようになりました。安心、安全と言いながら、自分が誰かを傷つけるリスクも、その逆も正直こわい。それでも、生きるためにやらなきゃいけない。
日頃のもやもやをどう捉え直し、考えるか。その上で、どう行動していくかを考える試みです。

なんだか大層な決意表明になっちまいましたが、茶しばいてお話しするだけです。

○概要
毎回テーマを決めて、来られた方々でお話しします。
定員5名、1名より実施。事前予約をお願いします。
結論を出すことをゴールにはしません。
強いて言うならば、身近なこととして考え続けることが目的です。

○5月のテーマ
同性婚訴訟、レインボーパレードにちなみ、セクシャリティ、家族を取り上げます。「基本的な知識が知りたい」「興味はあるけど周りとの会話で話題にしづらい」「なんとなくもやもやしていて」という方、ぜひこの機会を活用ください。

 

私の考察や所感、ということなのですが、率直な感想は、「難しいことしようとしてるな」と「ジュン・チャンらしいな」と「行動に移していてすごい」、のあたりでした。言葉にすると。

難しいことしようとしてるな、というのは、ジュン・チャン自身が分かった上で企画していると思うので改めて言うことでもないけど、その場にいる人を過度に傷つけないかたちでなにかしらの話し合いをすると言うのは、ホスト役の手腕に依る部分が大きいだろうな、と思うからです。というともしかしたらジュン・チャンは、自分はホスト役だったり司会といった、積極的に議論を回す役割をするつもりはないかもしれないのかな、とも思ったりするのですが(これまでのジュン・チャンや白米の感じを見てそう類推しています)、今回の場合はそうもいかなそうかな、と。来る人の背景がバラバラななかで、もし意見の対立が生じた際にどう場を作るのか、というのが難しそうだし、でも同時にそういうのがジュン・チャンの目指すところなのかな。

私は意見の対立を見ているのが割としんどいタイプで、これはもう体質みたいなものかな、例えばイベントや演劇なんかのディスカッションとか質疑応答とかアフタートークも苦手で帰っちゃう方なので、その意味でジュン・チャンの企画にバイアス無しでの感想を言うことができないです。ごめん。対立というか、対話から生まれるものが多くあることは知っているんだけど。時に対立を恐れずに主張すべきことがあるのも分かっているんだけど。あの、言葉と言葉が噛み合わない瞬間の居心地の悪さに耐えられなくて。分かってもらいたい、分かられない、分かりあえないということにナイーブすぎるのかもしれない。

その意味で、これは皮肉でもなんでもなく言うのですが、ジュン・チャンの、ちゃんと発信してちゃんと(もし噛み合わなくても)対話から逃げない姿勢は、私にはぜんぜん無いもので、「ジュン・チャンらしいな」「行動に移していてすごい」も本音です。私にはできないことをできてすごい、って褒め方は、字義通りに読むとそれこそなんだか皮肉めいてしまうんだけど、そうではなくて。ジュン・チャンだからできることだな、と思っています。
実り多き集まりになりますように!

追伸:先日往復書簡LINEで話したピルですが、医者からOKをもらったのでどうも飲めそうです。やったー。生理の重さを呪うとき女に生まれた自分も呪ってしまい非常にドロドロとした怨念に飲み込まれるので、まあ怨念は消えないにせよ少しでも月経に関する諸問題から解放されたいと願うばかりです。

第七便の観測

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ひらちゃんです。
2カ月の御暇をしていました。


というのは半分嘘で、もう半分は転職先での仕事が始まったこと、及び希望的な意味でも絶望としても出ると思っていなかったこの緊急事態宣言に心底振り回されていたというのが正しい。だってさ、宣言出る直前に引っ越しの契約しかかってたんだよ、もうあと不動産屋に書類送るだけだったんだよ(解約させてもらった、不動産屋さんごめん)。あまり政府がどうにかしてくれるとは思えなくなってきつつあるところ、宣言が出されるとオットの仕事量(つまり、我が家の収入)にダイレクトに響くので、本当に今私はお国がこわい。

写真は葛西臨海公園の親子鴨で、子鴨の移動スピードのヤバさに引いた、あいつらめっちゃ速い。そんなふうにとにかく休日は都内をほっつき歩き回っていた。

ここのことをほんとうにただ観察するだけになっていて、犬氏及び姪っ子氏をいつくしむ気持ちがまぶしい。
犬飼いたい。
ペット可物件に引っ越したい、できれば2DK以上駅徒歩15分以内で。
思い返すときのことを思える生活だなんて!
責任を持ちたい。いや、そんなことをしなくたって責任をもって仕事とかやるべきなんだけど。

一年以上前の緊急事態宣言を契機にこの会えない生活が始まったのだというのに、なんだかあんまり前に進んでいる気がしないでいる。作り出すことが前に進むことだと仮定したらジュン・チャンの政治活動の試みはすごく賢明で懸命、なんせ乱世で自分が否定されることが多いと他人のことも否定していいような気持ちになってしまう人がたくさんいると思うので。自分自身が種の保存に資しているなんて気持ち悪いことを思わせられてたまるか。先週28歳になって、20歳の時の自分の予定ではもう子供を産んでいるつもりでいて、まだ私は毎月ヤーズフレックスのお世話になりながら卵子を卵巣に押しとどめている状態なので腰の怠くなるようながっかり感、といってジャンヌダルクでもなし、静かにベッドに腰かけています、とはいえそう、個人的なことを公に絡めとられるのはタカシナが言う通り真っ平御免、トランスかどうかで分断されるのも御免、この意味では私に当事者性はないけれど次が私の番じゃないとどうして言えるんだ。



ギャラリーだったり文学フリマだったり、外に出られない日々といえど表現を伝えるという意味での「外」に半身を出していくのが、絡めとられない方法のように見えます。
そしてそれは全然軽やかじゃないのだね。
その軽やかじゃなさを祝いたい。

ジュン・チャンから課題図書と言われていた『夏物語』をようやっと読む。
そういえば『乳と卵』は持っていた。

文章を書くことも夢を見ることも彼らはするけれど、巻子の豊胸手術も、夏子の子が欲しいのことも、クリニックなり体験者なりに「話しに行くこと」でしか話が転がらない。調べて、チャレンジして、行動して、やっと地団駄踏む資格が与えられるんだなと諒解する。ついでにチェイサーとして遂に完結したよしながふみ『大奥』を読んでみたらチェイサーにならなくてダブルパンチで転げた。
地団駄を踏みに行こう。


第七便 返信

ジュン・チャンです。こちらは雨が続いています。止んだかと思うとスコールみたいに降る瞬間もある。湿った土の匂いが立ち込める。今年も梅雨が巡ってきた。蒸し暑い日もあり、おでこに前髪がかかる時の不快度数が高まってきた。髪切りたい、刈り上げたい、デコ出したい。

本当にきた犬スペシャル。大切なもの、愛おしいものを語る時の人間は、本当に生き生きしている。最後の部分はゲラゲラ笑いながら読んだ。破壊神やん。犬、めちゃくちゃ元気なのが伝わってきたよ。文章なのに笑いが止まらなかった。数年前、京都へ遊びに来たタカシナに「純恋歌の歌詞がヤバい」と熱弁された時も、僕は混み合うバスの中で耐え切れず爆笑したのを思い出した。腹筋が割れるかと思った。

 

大切なもの、愛おしいもの、繋がりで、僕は姪っ子の話をしようと思う。

タカシナも知っての通り、僕らが大学生の時に姪っ子は生まれた。身内がいない東京で、姉は一人出産した。立ち会うことはできなかったけれど、生まれてすぐ病院に駆け付けた。今思えば、自分は身内代表だった。少しドキドキしながら部屋に行くと、ふにゃふにゃちっちゃい生き物が眠っていた。姉から抱き取った時、柔らかいなんてもんでない、ふにゃふにゃして軽い、形もはっきりしないような、とても頼りない感覚がした。ここまで当時を思い出しながら打っているが、泣けてきた。寄る歳の波を感じるね。東京にいる間は定期的に姉宅へ行き、成長過程を見守っていた。今思えば、就活や卒論、バイトがある中で、よく行っていたなあと思う。それも姪っ子が大切な存在だったからだと思う。

でも、なんで姪っ子をこんなに大切に思うのか、正直わからない。僕は自分の家族を大して大事には思っていない。むしろ、物理的に距離を取ることで、関係を保っている。ましてや姉のことは、好きでも嫌いでもない。一時期は、自分が子どもを産む気がない分、姉が孫を産んでくれたから、との理由も考えた。時間が経ち、今ではそんな打算的なものとも違うような気がしている。幸いにも、姪っ子について疎ましいと感じる程近くにいないから、ただ大切に思えるのかなあとも考え得る。まあともかく、家族、血縁に執着のない自分が、理由もわからず姪っ子を大事に思うのが、不思議で仕方がない。

姪っ子が生まれてから、彼女が生きる10年先、20年先、自分がこの世を去った後の世の中が、今よりマシになっているように、と思うようになった。姪っ子が生まれたから働こうと思ったし、今の仕事を選ぶに至った。依存的な考えだけど、彼女と出会わなければ、今の僕はなかっただろう。

姪っ子の未来を考えるようになり、昔に比べると生きることに前向きさが湧いてきたわけだが、磯野先生と宮野先生の往復書簡をもとにした著書『急に具合が悪くなる』にも触れよう。本書の「9便 世界を抜けてラインを描け!」で、宮野先生は三木清という哲学者の論を引用し、次のように述べている。

[「受取感情をどれほど遠い未来に延ばし得るか」と三木は言います。死に運命付けられ、消滅するだけの点であっても、世界に産み落とされた以上、その受取勘定を、自分を超えた先の未来に託すことができる。一人の打算ではなく、多くの点たちが降り立つ世界を想像し、遠い未来を思いやること、そのとき、私たちは初めてこの世界に参加し、ラインを引き、生きていくことができるのではないでしょうか。(P200)]

自分が死んだその先に、自分の言葉や行動を届けられるか。この論を読んだ時、そして磯野先生の講義で触れられた時、自分のなかで何かが定まった気がした。

実は僕が連休前に送った山脇益美詩集『朝見に行くよ』でも、未来に向けた決意、覚悟が書かれている。あとがきにあたる「泡の生まれた」の一節。

[この詩集は個人的なひとつの時代をパッケージしたのと同時に、100年先に届きたい気持ちを込めてつくりました。海みたいに、風みたいに、雨みたいに。夕暮れみたいに、朝焼けみたいに、音楽みたいに、コップ一杯の水みたいに、わたしの詩があなたの人生の透き間に沁みていくことを想像します。(P72)]

100年先へ届ける覚悟に打たれると同時に、[人生の透き間に沁みていく]と言い表わすしなやかさに、心震えた。だいたい読み物はまえがき、あとがきから読んでしまうタイプなんだけど、例に漏れず『朝見に行くよ』もあとがきから読んだ。あとがきだけでガツンッと流れに引き摺り込まれた。あの感覚はなかなか味わえない。綺麗な言葉を並べただけじゃ生まれない。未来へ届ける覚悟をして、研ぎ澄まさないと編み出せないものだ。

 

そうそう、電話で話したかもしれないけれど、昨年から今現在まで色々あったので、なんとなく名前の鑑定を受けてきた。「若いうちは苦労する、波がある」と言われ、「納得しかないけどまだ苦労すんのかよ」と内心思った。でも、「姪っ子との繋がりが深い。晩年も彼女が面倒を見る」と言われた。前半の散々な予測に比べて、たったそれだけのことなのに、心がじんわりした。最期姪っ子に看取ってもらえるなんて、僕にとっては贅沢な話。結果オーライ、終わりよければ全て良し。姪っ子の生きる社会が今よりマシであるように、地道にできることをしていきたい。仕事も、白米炊けた。も、今を生きる僕が未来に向けてできることであり、やるべきことだ。

 

ところで、次の話。今月、対話企画『揺らぐin別府』というのを始動する。初回のテーマは同性婚訴訟、レインボーパレードから、セクシャリティ、家族を取り上げる。もしよかったら、このテーマについて、タカシナの考察や所感など聞いてみたい。気が向いたらよろしく頼む。

 

【蛇足】どの作品か忘れたけど、ヤマシタトモコの短編で、ゲイの叔父が姉の産んだ主人公を可愛がっていた、という話を読んだことがある。高校生か大学生か、そんくらいの時期だけど、理由も分からず泣いたのを覚えている。

 

【参考】磯野真穂、宮野真生子『急に具合が悪くなる』

https://www.shobunsha.co.jp/?p=5493

山脇益美詩集『朝見に行くよ』

https://booth.pm/ja/items/2145838

第七便

タカシナです。早く寒暖差が落ち着いてほしい今日この頃。
ジュン・チャンと電話している最中に我が家の犬が部屋に突入してきて、目を離した隙に布団の綿を引っ張り出すという事件があり、電話越しにうちの犬のパワーを感じたジュン・チャンが「次の書簡はもう犬スペシャルでいいんじゃない?」と言ってくれたので、第六便の話は次に譲って、お言葉に甘えて犬の話をします。うちの犬の話。あと私の情緒の話。

愛おしさと疎ましさは私の中で少し近い位置にある感情だと思う。という考えが、もう随分前に、家族について友人と話していてふっと出てきたことがある。自分では感覚的に結構しっくりきた考えだったのだけど、うまく説明ができなくてそのままLINEは流れていった記憶がある。

例えば父親がうちの犬を見て心から可愛い可愛いと言っているのを見たときに、羨ましいなあと思うことがある。可愛い、愛おしいという気持ちを純度100%で抱いててらい無く表出するまっすぐな単純さが私にはないような気がする。
それでも犬が家に来て、私の情緒はかなり発達したように思える(語弊のある言い回しだが、実感としてそうなのだ)。犬は可愛い。たぶん可愛いから怖くて怖いから疎ましい。犬を見ていて、「は~可愛い可愛すぎる~~~」と思う、その気持ちが臨界に達すると切なくなる。こんなに可愛い存在が恒久でないなんて信じられない。千年一緒にいたい。でもいられないので既にほんの少しだけ悲しい。でも永遠の命が幸福をもたらさないことはヴァンパイアや鬼をテーマにした作品を通して嫌というほど知っているので、結局のところこの幸福な日々を享受して大切に過ごす以外にない。
幸福な日々、といっても日々の中に多くの出来事があり平坦ではないのだが、いつか振り返ったときに犬がいるということだけで絶対幸せな日々だったと思い返すときがきっと来ることを知っている。犬はまだまだ元気な盛りでこんなこと考えるのは気が早いにもほどがあるが、それにしたって犬が来てもう二年も経ってしまったのだ!そのことを思うと泣けてくる(現に今これを打ちながら私は泣いている)。
時の過ぎるのはあまりに早く、なんでもないような日々が続いていってもう二年経ってしまった。私だってその分歳をとっている。犬の時間は人間より早く過ぎる。そのことを考えると泣いてしまうので考えないようにしている。でもきっと人間の言う「ちょっと待ってて」の「ちょっと」は犬にとってはこちらが思うよりずっと長い時間なんだろう。10分くらい別の部屋にいただけでも、顔を見せると尻尾をぶんぶん振ってくれるのだから。
いつか必ず取り返したくなるようなかけがえのない日々を今送っていて、そのことはよくわかっているはずなのだけど、日常に忙殺されているとそのことを忘れてしまう。時々自己嫌悪に陥ったりもする。もっと犬を大切にしてあげたいのに余裕がなくてできない、というのは言い訳に過ぎない。そんなダメな飼い主でも犬はよく懐いてくれて、例えば犬が寝ている側に私が座ると薄目だけあけて、大儀そうにもそもそ動いてこちらへ寄ってきて、身体のどこかしらを私にくっつけて、ふん!と鼻息をひとつ突いてまた眠り出す。寝ている犬の身体は暖かくて重い。可愛いなあ、と思う。私にくっついて安心するならいくらでもくっついておいで、という気持ちになる。
こういう、ものすごく大切で、守りたくて、失いたくない、幸せでいて欲しい存在ができたということは、人生のエポック(違国日記より)でもある反面、責任の重たさも相当感じる。こと犬に関しては、幸せでいてもらうためにはなにより私達飼い主が健康でいて、十全な飼育をし続けないといけないわけだから。

冒頭に書いた愛おしさと疎ましさについて今一度考えて見ると、それは相手が人間にせよ犬にせよ、次のような要素からなのではないかなと思う。愛おしいとか大切だとか思えば思うほど、その対象や関係が永遠ではないと思い知ること。それに加え、そうした関係には自分が相手に対してしなければならない義務やしてはいけないタブーというのが必ずあるわけで、そうした責任や縛りが自分に対して発生すること。でもその責任や縛りが必ずしも不愉快な訳ではなくて、重たいけれども信頼を感じるものでもあり、だからなんとなく、それをもにょもにょと言葉にしようとすると、「疎ましさ」という言葉になるのだけれど、だからといって手放したいわけではないということ。ただ、ときどきまとわりつくような生暖かい湿っぽさを感じてしまう、それは私の性分だろう。そして犬が家に来て、少なくとも犬の与えてくれる生暖かい湿っぽさを私は愛することができる、と知った。犬にはきっと伝わらないと思うのだけど、犬はいるだけで私を救ってくれる、それは例えばそういう面においてだ。私は犬を心から、掛け値無く愛し慈しむことができる自分を発見して、結構救われた。

犬ののろけをたくさんしようとしたのになぜか大真面目な犬賛歌となってしまった。でも、何となくずっと心の中にあって触れると泣いてしまうから書けなかったことを文章にできて少しほっとしています。ジュン・チャンにあててだから書けたのだと思う。ありがとう。

これだけだとうちの犬が爆裂元気であることは伝わらないと思うので最後に少し書き添えると、最近雨漏りを直しに来てくれた大工さんが我が家のあちこちをついでに検分してくれたのですが、犬由来の破壊が少なくとも二カ所ありました。壁を食わないでくれ。ドアに体当たりもしないでくれ。犬、ドアに体当たりして寝室に入り、寝室のベッドの下をくぐり抜けて隣室への柵を鼻でこじ開けて妹のリモート仕事部屋へ突入する経路を最近発見したのですがその間10秒ほどなのでだれも捕まえられない。神速。バーン!!!テケテケテケ!!!ガシャガシャガシャ!妹の元へ犬光臨!といったスピード感(伝わって欲しい)。元気。

第六便 返信

お久しぶり、雨上がりの大分からジュン・チャンです。

4月は前半に朗読、後半に云年振りの裏方で、我ながら詰め込み過ぎた。

本番が4月でも、準備は2〜3月から進めていくから、特に後者は小屋入りを彷彿とさせた。仕事帰りの鍵閉めに、学館の退館を思い出した。振り返るとみんなよくやってたよなあ。体力が保たないよ。

とはいえ僕は楽しかったし、関わった人達の次へと繋がっていったらいいなあと、毎度のことながらささやかに願っている。この想いは学生時代から変わらない。むしろ時を経て、強くなった気もする。

タカシナはどんな気持ちで舞台に関わっていたのかなあ。役者と制作だと、ちょっと違ったりするのかな。

 

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取り止めのない話、ということで。

返信だから、まずはタカシナの書簡につらつら返信をする。

ポイントを切り出してる自覚はあるから、不愉快に思わせたらごめん。僕がビビッと印象に残ったところというので勘弁してくれ。

 

[私は、私の周りの人達がそれぞれに交わし合ったり、私に向けてくれていたりするものを別に疑ってはいないし、幸運なことに、世の中に愛のようなものが確かに存在することも知っている。でもどうも、自分をそこに代入すると考えがバグってその先へゆけない。似たような特徴のセクシュアリティは調べれば出てくるのだけど、名前を付けたら状態から属性に固定してしまうような気もしてあまり深く調べていない。そのうち変わるかもしれないし、このままかもしれないなあ、とも思っている。](第六便より)

僕は自分の性別違和、というか存在への不確かさを感じながら、悶々とした子ども時代を送ってきた。

大学でジェンダーセクシャリティに関する文献を漁ったり、講義を取ったりするのは必然だった。実家にはインターネットに繋がるような機器もなかったから、益々情報は得られなかったし。

あの頃の自分は、どうやって自分を認めてやったらよいか分からなくて、必死にしっくりくるカテゴライズを探していたように思う。

ちょうど僕達の在学中にLGBTQなんて言葉が出てきて、社会的な認知に繋がってはいったけど、それもまたしっくりこなかった。「そこに僕はいない」そんな感覚が拭えなかった。

一方で、あるカテゴライズに積極的に迎合しようとすると、自分自身の物語を見失う、という側面も僕は理解している。マイノリティ、精神疾患のラベリングが有名な話だと思う。

じゃあ、どうやって自分を認めて、受け入れて生きていけるのか。

完璧な答えはないけれど、周りの人とどう関係を築き、その中で過ごしていけるか、だと思う。今は自分を否定するものがあまりない中で、ぬくぬく過ごさせてもらっているから。居心地が良い。子どもの頃に得られなかった感覚を、今更追っているのかもしれない。

 

[たとえば恋愛は、してもしなくてもよいものだとよくよく頭では理解しているのだけど、それでも時々普通に普通の恋愛ができないままでここまできたことに、足下が寒くなるような心地になる。自分には何かが欠けているのかもしれない、と思い、それがバレないようにより陶冶された人格というものを目指していた頃もあった。誰にでも公平に優しく嫌いな人を作らず悪口を言わず、という運用を(実際にできていたかは別として)目指していたら疲れてしまった。生まれつき優しければよかったのだがどうも私は違ったらしい。強くて優しいアンパンマンに生まれたかったが違ったので馬力で解決しようとしたんだな。長続きはしなかった。](第六便より)

タカシナはよく言っていたよね、「アンパンマンみたいになりたい」って。

僕もそう思ったけど、無理だった。僕は自分や友人を貶める奴が許せなかった。「嫌いになった」じゃない、「幻滅した」のだと今ならわかる。

この辺りの話は朝まで生テレビばりに電話で話した通りなんだけど、今回関わった展示「もやもやしてることにとことんもやもやしたい」を経て、以前よりは気持ちが凪いできた。自分にしろ相手にしろ、憎み続けることは苦しいね。

未だに謝罪はないけれど、もう関わることもないからどうでもいいや、と本格的に思っている。

父を長らく憎悪していた時のことを思い出した。学生時代、18切符で故郷を旅した時に、ある種の諦めがついて楽になった。

 

恋愛至上主義でモノを見る輩に違和感を覚える。人の関係性はもっと多様で鮮やかだ。男女が2人でいる=カップルは違う。女の形だからって勝手に幻想を抱いて、僕のことを見ようとしない奴も不愉快だった。

この辺のことを丁寧に描いた作品によしもとばなな『王国』シリーズがあるが、最近読んだチェ・ウニン『わたしに無害な人』も良かった。今日読み終わったんだけど、これはやばい小説だった。ぜひ読んでみて。

 

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こんなにつらつらでよかったのかな。まあでも4月だしね。許してくれ。

季節の変わり目、お腹が冷える。まだまだ寝る時は腹巻がいるね。お互い自分を大事に過ごそう。

 

徒然なる追記。

・温泉に浸かりながら、よく死なず狂わず生きてこられたなあと思った。読書や演劇への没入、運良く良い人達に巡り会えたからだなあとしみじみ感謝した。

・ちょっと前に「おとなりコンプレックス」っていう漫画を読んだ。定番ちゃ定番の幼馴染もの+男らしい主人公と女装の似合う幼馴染というこれまた定番の設定。この幼馴染が「女として好きなんだ」等言う場面があって、まあもちろん2人はくっつくわけだけど、なんか残念だった。

第六便

お久しぶりです。私が書き始め、ということに決まってからひと月くらい経ってしまった。さぼっていたわけではないのですが、春なので……。今回は何となくとりとめのない話になってしまう気がする。書き方を忘れてしまったような気がする、というのと、日々色々なことに怒ってはいるけれど、いまここでそういう話がしたいわけじゃない、というのと。


どこにいてもそこが自分の本当の居場所とは思えない、というような話が好きだ。寄る辺なさのようなもの。学生時代、オールの飲み会の賑やかな座敷を抜け出してコンビニに行くときの、店から外へ出る階段を降りて深夜の静まりかえった街のアスファルトを踏んだ瞬間の気持ちのような。あるいは、行くあてもなく高速バスの行き先一覧を眺めているときのような。

ずいぶん前、ジュン・チャンと一緒に関わった劇も、そんな話だったように思う。

あと、キリンジの『十四時過ぎのカゲロウ』という曲の「水辺の生き物だから 陸(おか)では生きてゆけない気がしている」という歌い出しがまさにそれで、夏になるとよく口ずさむ。自分のことを水辺の生き物だと思うと、少し気が楽になるときがある。


村田沙耶香『地球星人』を読みながら、そんなことを思っていた。私はどこの誰でありたいんだろう、と。そして『地球星人』があまりに面白くてますます恋愛とは、そして生殖とは…みたいなことを考え込んでしまった。私が小さい頃からぼんやり思い描いていた人生双六には恋愛結婚出産育児ってまっすぐ書いてあって、なんのために、みたいな問いはそこにはなかった。


私は、私の周りの人達がそれぞれに交わし合ったり、私に向けてくれていたりするものを別に疑ってはいないし、幸運なことに、世の中に愛のようなものが確かに存在することも知っている。でもどうも、自分をそこに代入すると考えがバグってその先へゆけない。似たような特徴のセクシュアリティは調べれば出てくるのだけど、名前を付けたら状態から属性に固定してしまうような気もしてあまり深く調べていない。そのうち変わるかもしれないし、このままかもしれないなあ、とも思っている。


たとえば恋愛は、してもしなくてもよいものだとよくよく頭では理解しているのだけど、それでも時々普通に普通の恋愛ができないままでここまできたことに、足下が寒くなるような心地になる。自分には何かが欠けているのかもしれない、と思い、それがバレないようにより陶冶された人格というものを目指していた頃もあった。誰にでも公平に優しく嫌いな人を作らず悪口を言わず、という運用を(実際にできていたかは別として)目指していたら疲れてしまった。生まれつき優しければよかったのだがどうも私は違ったらしい。強くて優しいアンパンマンに生まれたかったが違ったので馬力で解決しようとしたんだな。長続きはしなかった。


頭で理解することと感情で納得することは別で、頭では分かってるけど気持ちが追いつかない、ということはよくある。最近、というよりずっと考えてるのは、世のそもそもの価値観として、論理的/効率的/儲けを出す、みたいなひとまとまりのイメージが「強い」、「良い」とされていて、その逆は否定されがちであること。初めから前者が良いものと決まりきっていたら、どうやっても収益が薄い分野のものは軽んじられるし、その際に「感情論だから」とか「非効率的なことをしているから」といわれると批判としてなにかクリティカルな感じがする。でも元々、二項対立のどちらが優れているか、ではなくて得意分野の分担でしかないのに、と思う。例えばここに男女の二項を代入するとステレオタイプな男女像が浮かんでくるけれど、それもお互いに性別ではなくて、得意な方、やりたい方を選ぶことに躊躇いや不安のない社会になったらいいのに。その方がずっと創造的だ。


世の中、とか社会、とか打つと指がむずむずする。そして急激に気圧が下がってきた感じがして頭が重たくなってきたので、このあたりで一区切りにするね。

ジュン・チャンの、とりとめのない春の話を言いたい放題聞かせてください。


 

第五便 返信

お久しぶりです、タカシナです。
暖かくなったらテキメンに喉まわりの調子が良くなってきて、自分でも笑ってしまう。乾燥は私にとっての強敵のようです。
ジュン・チャンがこれまでの書簡を読み返した、と言っていたので私もそうしてみた。一便めに書いたこととかもう完全に自分でも忘れていたので少しくすぐったい気持ち、既に過去だね。過去の手紙を箱から取り出して読み返している気分。その時々に思ったことを取り留めなく書く、という行為が後々読み返す楽しみも生むとは、私にとってはあまり考えていなかったことで、いわば棚からぼた餅というやつです。ああ、生協で買ったおはぎをそろそろ解凍してお供えしないとお彼岸が終わってしまう。日々は生活として忙しなく過ぎてゆくね。

 

第五便を読んで、しばらく、返信を書けずにいました。
ジュン・チャンが写真で載せてくれた文章を読み、打ちのめされていた。
まず、冬の深夜の冷え切った空気みたいな、さえざえとした、読んでる間中喉元になにか突きつけられているかのような切迫した印象の文体のことを思った。それは、当時のジュン・チャンにとっての真実しか書いていない文章だからだろうとも。そして、18歳にこのような文章を書かせた経験のこと、私が出会った時点でジュン・チャンが立っていた地点のこと、などを思った。この時期になる度に思うけれど私はずっと、震災のことから逃げてきてしまっているから、何も言えない。言えないなと思って、そのまま、返信を放っておいて、11日も過ぎて、今になってしまった。ごめんなさい。この期に及んで逃げている、自覚はあります。

 

経験していない苦しみに対しては、なにも言うことができない。本当に、ジュン・チャンの言うとおり、「寄り添い見守るくらい」しかできない。でも本当は、もっと知るべき事はあるのだとも思っているんだけど、これは私の怠慢の話だな。
ああ、私のような人のためにジュン・チャンは『この世界の片隅で』のような活動をしているのだね。分かったような気がします。
ツイキャスに残してくれた朗読の練習の履歴を寝る前に聞いているんだけどすぐ寝入ってしまうからなかなか通して聞けなくて、と以前LINEで話したあれは半分本当で少し嘘です。最初にツイキャス音源の存在に気付いたとき、『捜す人 津波原発事故に襲われた浜辺で』の朗読のうちひとつをぱっと再生して、少し聞いて、すぐに内容のつらさに参ってしまったから、これは昼間には聞けないと思ってそれで寝る前に聞くことにした。私が自分の弱さを嫌になるのはこういうときだ。だって否応なしにその現実にさらされているひとがいるのに私は逃げることができるから逃げるって、そんなのずるくないか。そう思うけど、昼間にはやっぱり聞けなくて、深夜に聞いている。


山脇さんの詩集読みたいです。送るよっていってくれたけど甘えていいのかな。逆に私も読み終わった川上弘美のなんかうねうねしてやばい小説を送りつけようかな。送料という概念ね。


そうそう、「伸ばされた手を掴むことより、手を伸ばすことのほうが難しいのかも」のくだりを考えるきっかけになったのは、『少女革命ウテナ』というアニメです。
というか先述の言い回しはあまり正確ではないな、と読み返して自分で驚いたのでより丁寧に言うと、「誰かを救うために手を伸ばすことより、救われるためにその手を掴むことのほうが難しいし、救いを求めて手を伸ばすのはもっと難しい」というのが、私の言いたいことだったように思う。まったく雑な言葉でごめんなさい。
つまり、救いを与える側と救いを求める側ならば、場合にもよるけど後者の方がより高い心理的ハードルを課せられているのではないか、ということ。私には、助けてほしいと手を伸ばすのが簡単な行為には思えなくて、それよりは助ける側に回る方がいくらか楽なんじゃないかなあ、と、そんなひねくれたことを考えていた。非対称性、優位性の問題かな。


昨日LINEしていても思ったけど、自分を無意識にマイノリティ側に入れて考える癖のあることに自覚的にならないといけないな、という自戒とも通じるかもしれない。
私はある属性においてはマイノリティなのかもしれないが、別の属性ではマジョリティ側にいて、だからこそ、マイノリティの顔をした自分のふるまいが無意識的にマジョリティとしての暴力を帯びていないか、考えないといけないな、と。そしてマジョリティはすぐに弱者としてのマイノリティを「助ける」みたいに言いたがるけど、それってどうかな、助ける側に立ちたいからじゃないのかな、とか。
『こんな夜更けにバナナかよ』を読み返す時期なのかもしれない。


終わりに、私が語りたいだけの『少女革命ウテナ』の大好きなシーンの話を(未見の場合に備えネタバレを避けて)します。
ある人はいま、目の前にいる人からまっすぐに救いの手を伸ばされている。この手を取ってくれと懇願されている。だけどその人は、自分が手を取れば相手が取り返しのつかない犠牲を代償に払うことになると知っている。相手は己の身に降りかかる代償のことなど知らないがとにかく、自分の全てを捧げてでもその人のことを救いたいと一念に思っている。その思いも分かるからこそ、「あなたを犠牲にしてまで救われたくはない」「でもあなたが望むのは私がこの手を取ることだ」というジレンマから、その人はボロボロと玉のような涙を流す。この涙の描写がものすごく印象的で、これは相手が犠牲になることを利用してでも自分が救われることを選ばなければならないがゆえのつらさなのだと思った。救う方と救われる方ならどちらがつらいのか、なんてことを考えるようになったきっかけのシーンだ。大変抽象的なアニメであり、これもあくまで私の解釈ですが。


往復書簡の往路と復路、両方経験してなるほどなるほどとなりました。書き出す方と受け取る方では違った意識になるね。
もしよければ、つぎはLINEでじゃんけんでもして勝った方から書き始めて、それ以降は交互に書き初めを担当、とかでどうでしょう。


暖かくなるまで生き延びる、という短期目標はおかげさまでなんとかなりそうな気がしてきたので、次の目標は夏まで生き延びる、ですね。茗荷をたくさん食べる。