次に呑む日まで

呑める日が来るまでの往復書簡

第三便 返信

ジュン・チャンです。

僕もだいたい年2回は耳鼻科のお世話になるのだけど、今年は鼻うがいの効果か、まだ大丈夫そう。

平ちゃんの観測も加わって、立体感が増してきたね。平ちゃん主宰のコドモノチルドレン(https://twitter.com/kodomo_children?s=21)企画名が毎回好きだったなあ。言葉選びが秀逸だし、響きやすい。

 

体調不良と言われると、自分の身体のいろんな特徴(最初に「欠陥」と打とうとして、少し考えて「特徴」にした)に思い馳せる。生まれた直後、原因不明の高熱で、1週間生死を彷徨ったのが、僕の人生を決定づけたようにも思う。

小学生の時には、毎年必ず吹雪の日に冷や汗かいて嘔吐、早退。今思えば、あれは気圧とか気温差とかへの敏感さが根っこにあったのだろうなあ。大人になって、気象病の概念を知り、ちょっとホッとした。今でも、雨が降る前は頭痛がするし、気圧が低いと朝起き上がるのが億劫だし、季節の変わり目は花粉で鼻から喉までやられちまう。生活を見直してから、前よりはマシになったけど、影響がなくなることはない。

高校からは、急に生理痛がひどくなり、大学生の頃からPMSが生じるようになった。希死念慮を伴うくらいにメンタルダウンするようになり、働いてからピルを飲み始めたけど、自分の体質に合うまでは何種類か試す必要があったし、最初は飲み続ける負担が強かった。なんのために高価な薬を飲んで、痛みや気持ちをコントロールするんだろうって。今は「ちょっとは円滑に社会生活を送るため」と割り切れるようになったけど。

まだあんのかよ、と自分でもうんざりするけど、社会人になってわかったことに、心拍の特徴があった。2月になると心臓のあたりが一時的に痛むことがあって(これを不整脈と呼ぶのかも、僕はよくわかっていない)、一度検査をしたことがある。その時に、心臓の弁が通常より一つ足りず、心拍が早い(一拍ばかり足りない)こと、今は治療する必要はないこと、がわかった。あん時ちゃんと、今後の見込まれる経過を聞いときゃよかったんだけど、予想外の指摘で抜けてた。

身体も心も常にサバイブ、よく生きながらえてるなあと思う。タカシナは第三便で、体調についての箇所を以下のように小括したね。

[もっと強く生まれていたら、怖いと思うものも今よりずっと減っただろう。もっといろんな方法で人を助けたりもできたのかな。これは笑って聞いて欲しいのですが、私は本当の本当はタフに人助けできる感じの人になりたかったのかもしれない。心も身体もタフに、目の前の人を助けられるような人に。アンパンマンを心から尊敬している。彼は「タフ」とは少し違うかもしれないけど。でも、アンパンマンのように他者へ優しくあるためには、ある種のタフさは必要な気がする。]

これに対して、ポケットモンスターのエンディングだった「そこに空があるから」https://youtu.be/P3_6cdd7fvk を贈るね。「傷つかぬ者に 青空は見えない 迷い 歩むたび 生命は輝く」という歌詞が、当時小学生だった心に刺さっていて、以来ずっと心に残っている。

人は痛みを体験しないと、相手の痛みに想い馳せることが難しい。でも、タカシナがいうように、痛みの最中にいる時は、やり過ごすのに精一杯で、そんな余裕なんかないよね。心身ともに安定している時だけでも、他者の痛みに想い馳せることを、怠らずにいきたいね。それがどこかで巡り巡って、自分を救うことにも繋がるような気がする。

 

僕の卒論は扱うテーマが広すぎて、上手くまとまらず終わってしまったけど、あれから5年経った今でも、同じテーマについて考え続けているし、白米の活動にも反映されている気でいる。学舎を出た今でも、こうして一緒に考えられる友がいること、心強く思う。いつもありがとう。

「内なる優生思想」と聞いて、2020年に書いた文章を思い出し、引っ張ってきた。まずは2020年8月に考えたこと。

[れいわ新撰組議員の発言、ALS患者の死。命の選別、自己責任論に関する出来事を見聞きする度に、学生時代の授業で先輩が言っていた「生まれてこなかった方がいい命なんてない」がひたすら頭をよぎる半年だった。]

社会が不安定になると、スケープゴートをつくったり、命の選別をしたりが始まる。ドイツにおけるナチスの台頭は最たるものだったが、今も世界で、日本で、同じようなことが起こっている。

日本近現代史が専門の、大日方先生の講義をとった時、最後の講義で言われたことが脳裏に残っている。「全く同じことは起こらないが、似たようなことは起こりうる」5〜6年経った今、振り返ると、希望とも絶望ともとれる、とても重たく、今を生きる我々に委ねられた言葉だなあと思う。

また、2020年2月、雨宮処凛『この国の不寛容の果てに 相模原事件と私たちの時代』に、内なる優生思想について考えるヒントがあったので、僕のまとめを載せる。
[乱暴な分け方だけど、共通していたのは①自分も他者も「そのままでいい」と受け入れられるかどうか、②変化の早い社会構造とマッチできず、気持ち的にも行き場がない人が増えている、だと思う。①②にも繋がるが、後半ではマジョリティの当事者研究の必要性が提起されていた。自分を受け入れることから、他者を受け入れることが始まるとしたら、従来のマイノリティの当事者研究という枠組みが、行き場のない困りを抱えた微妙な層の生き方の捉え直しにも有効というのは一理あると思った。]

何かを許す、許容する、ということは、まずは自分の中にある「これは許せない」と向き合うことから始まるように思う。きっとこのプロセスは、自分の中にある「それでも絶対に譲れないもの」をも、まざまざと見せつけるのだろうね。

出生前診断は、その最たるものかもしれない。ただ、僕なんかがふと思うのは、個人の価値観と社会の価値観は、密接な共謀関係にあるのではないか、というところ。どちらかが一方的に押し付け合う構図(というのももちろんある。公害や原発基地問題など)、というよりは、相互に影響し合う可能性を持つものとしても捉えうる。だとすれば、一人一人が自身の価値観を振り返ることは、社会の大きな規範を変化させることにも繋がらないかなあ、なんて思ったり。

 

障害学を学ぶと必ず出てくるのが、医学モデル、社会モデルの考え方だ。ざっくり僕の解釈だと、社会の側、環境が障害を作り出しているという見方なわけだけど、まさに今の社会の仕組みと、発達障害の特性や精神疾患等からくる体調の波って、相いれにくい。オールマイティになんでもこなし、フルタイムで働く、それだけでもすごいハードルだもん。僕もぶっちゃけ生理前と最中は休みたい。何もしたくない。社会の仕組みが機能しなくなってきてるのを感じる。

東日本大震災を経て、変わるかと思われた政治や働き方は、あんまり良い方向にシフトしなかった、というのがこの10年に対する僕の認識だ。コロナ禍を経て、どうなっていくのか。占い界隈の人達が言うに、2021年1月に、400年続いた土の時代が終わり、風の時代が到来したらしい。個を重んじる時代に、うまいこと乗っかっていきたいし、乗っかっていってほしいもんだ。

お互い、ありのままフラフラ漂っていきたいね。

 

第四便の書き出しは僕からということで、承った。来週はちとバタバタするから、またおいおい投げていくね。

 

追伸

①そういえば今冬はホットワイン飲み逃した。シナモンが好きな僕です。僕は前回、チャンポン10杯からの記憶抜け落ちネタを晒したわけだけど、大分の友人にもネタとして共有したんだ。そしたら友人は昨日、一人で3軒目に行ってみたらしい。このご時世で他に客もおらず、静かに呑めたらしいけど、一人だと飲み過ぎてしまうから、一人で3軒目まで行くのは、3ヶ月に1回が適当だね、って話になった。そのうち「呑み方を弁える会」開催予定。

②最近の生きながらえるための音楽を紹介。

スピッツ 『春の歌』

https://youtu.be/94uxNQqmknk

スピッツ猫ちぐら

https://youtu.be/FOtgYKCB4Qo

フラワーカンパニーズ『深夜高速』

https://youtu.be/Ihjr5Xz31sI