次に呑む日まで

呑める日が来るまでの往復書簡

第四便 返信

返信って初めて書くから緊張するな。 
タカシナです。

「相手を尊重する」ことについて、ジュン・チャンは、自身のジェンダーに関する実感を例に話してくれたね。私も自分の根っこにあるジェンダーの話をたぶん、ジュン・チャン相手にならいくらでもできるのだけど、今回はそうではなく、また別の側面の話から始めようと思う。

私の両親は身体障害者だ。*1私とその事実とは、つかず離れずしかし切り離せずのつきあいを26年やってきた。

ジュン・チャンの言っていた、「この人は自分を理解してくれている」と信頼していた相手から価値観や考え方を踏み躙られるという経験、私は障害者差別に関して何度も似た場面に直面してきたように思う。

他のことに関しては差別的なことなど言わなかった友人が、ふと漏らす障害者への蔑視。私が経験してきた例ではだいたい、そういうことを言うからといって日頃から差別的なことを言っているわけではなくむしろ他の差別はきちんと批判できるひとが本当に何気なくそういうことを言う。私は両親のことがあるからかそういう匂いには基本的に敏感なほうなので、あからさまに差別的なことを言えたりジョークにできたりする人には一応心で線を引いたまま友人になる癖がついている。だからこそ、この人はそういうことはなさそうだな、と思っていた人が不意にそういうことを言うと、頭がフリーズする。そこから、勿論相手は私の両親のことを知っていたらそんなことは言わなかっただろうし、世間一般には障害者ってそういうふうに見られてるものだし、私はある種この問題には過敏なのだから他人に自分と同じものを求めてはいけない、みたいな方向に脳が一生懸命回り出す。防御反応からくる擁護だし正しくないって分かってるけど私だって大切な友人をたった一言かそこらで嫌いになりたくはないのだ。でもやっぱり勝手にすごく傷付くけど。

それからまあ、「私が相手を信頼しすぎていたんだ」とも思う。でもこれは少し傲慢な考えな気もする。

中村珍『羣青』31話に、読んだときから忘れられないこういう台詞がある。

「お互いにさ、違う種類の人生を知らなかった~ってだけじゃん…。わっかんないよ、知る機会の無かったことは」

本当にそうだな、と思う。私はたまたま人より知る機会が多かっただけ。相手は、障害者について詳しく知る機会がない人生だったんだろう。それだけ。同じように私だって知らないことで、差別を行いうる。いや、もうしてしまってきただろう。なるべくなら気が付いて止めたい。少なくとも開き直らなず向き合うようにしたい。そういう高潔な知性を構築したい気がする。

これだけでは、ジュン・チャンやその周りの人を踏んづけていったやつら(私はジュン・チャンの友人なので、私の友人を踏んでいった見ず知らずのひとには敬意を払いません)をも許せ、みたいな文意になってしまうと思ったので、私の内省はここで止めます。そういう話をしたいわけではない。私はあなたが尊厳を踏まれた話に怒っています。

踏んだ奴らにその行為で奪った私の尊厳を返せ、と言いたいけど、そういう奴らは言っても分かってくれなさそうだ。この、「相手の考えを変えられない」というの、どうしたらいいんだろうね。そもそも考えを変えるなんて傲慢だし暴力的な気がして躊躇われる、が、近い関係にあるひとであれば、こちらの譲れないものを受け入れてほしいとも願ってしまう。それこそジュン・チャンのいう「相手の価値観や考え方」、これは互いに譲れないものだろう。相容れない同士でも、受け入れあえないのかな。

最近見たワイドショーで、食事の好みが全く違う芸能人夫婦がさんざそのことで喧嘩した末今はお互い食べたいものを自分で用意して、ばらばらのメニューをひとつの食卓で一緒に食べるという結論に落ち着いた、と言う話をしていた。

諸々すっ飛ばして言うなら、ガスト行ってあなたは豆腐サラダ、私はチーズインハンバーグにポテトも付けちゃう、されど仲良き、みたいにできたらいいのかも。これはマジで今考えたことをそのまま書いているので荒い理屈ですが。

問題は、私が「ガスト来てまで豆腐サラダだけとか」みたいなイチャモンを付けないように我慢できるか、ということ。さらに一歩進むなら私がめちゃくちゃ豆腐を倫理的に正しくない、食べるべきではないと思っていて、目の前で豆腐を食べられることに嫌悪感があるとしたらどうだろう(豆腐ごめん)*2。しかしそれは相手に強制できることではなく、相手には豆腐を食べる自由がある。でも、せめて私といるときは別のサラダにしてくれないかな、とか。本当は豆腐食べるのがなんでダメか理解してやめてほしいと思う。本音はそう。でも私の思う正しさを押しつけていいのか。そこで対話が手法として登場するのか。なるほど。

私には私の信じる主義のようなものがいくつかある。生まれつき選べなかったものでひとを差別するな、とか。そんなの当たり前じゃんとすら思う、しかし当たり前ではないひとには当たり前ではない。

私やジュン・チャンは、平ちゃんの観測でも言われてたようによく電話もするし、対話も嫌いじゃないほうだよね。でもだからこそ、最近は、対話のテーブルについてくれない人にどうアプローチしたらいいのかな、なんてことも考える。私に関しては、そもそも対話で何とかしようとする時点で、自分の得意なフィールドに持ち込もうとしてしまっているのかもしれない。私は自分の考えを言葉にするのが好きだし、ある程度得意なので。まあ口喧嘩は弱いけど。

私は『違国日記』がとても好きだけど同時に、あれも朝ちゃんが槙生ちゃんの言うことを聞いたり聞かなかったり反抗したり、その意味でとても健全な子であるから成り立つ物語なのであって。槙生ちゃんの言うことを、さっぱり理解しようとも思わない子やむしろ内面に取り入れすぎてしまう子なら、あの物語の均衡は崩れてしまうなあとも思う。槙生ちゃんは(本人も自覚しているように)言語コミュニケーションに特化しているので。

うまくまとまんないなあ。対話以外に分かり合う方法を私は知らないけど、対話をしてくれるひとばかりではないし、対話は苦手だ、というひととかもいるし、言葉にならない、できない切実さのことだって無視したくない。でも自分の尊厳は守りたいし、そのために対話を、言葉を武器のように使ってしまうこともある。私は最近少し、対話に懐疑的(懐疑的ですって!)な気分なのかも。というか、対話したくない、する気がない、苦手、みたいなひとにどうやったら声が届くだろうか?断絶って呼んで諦めたくない気持ちもあるのです、そこは多分ジュン・チャンと一緒。

もしかしたら、伸ばされた手を掴むことより、手を伸ばすことのほうが難しいのかもしれないね。 

そうそう、おすすめされていた川上未映子の『夏物語』、読みました。それで、テーマとして描かれていたひとつの「反出生主義」について、否定したいのにはっきり否定の理屈が編めないことに気がついて自分でも驚いている。というか、肯定否定の答えが出ない。なのでいまはとりあえずググって記事を読んでみたりしている。直感的な拒否感だけですむ話ではないし。

答えが出ないからこそずっと考えていられるテーマなのかな、とも思うけど、そう思ったそばから「夏物語」にでてくる某登場人物が思い出されて、あの人に対してそんなふやふやしたことは言えんなあ、と思ったりもする。私はあの小説を読んでいる途中から、主人公よりむしろその登場人物のことを強く意識するようになってしまった。

彼女は自分にとっての真理は分かっているけど他人に押し付けてなくてえらいなと思う。一方で彼女の真理を周りは理解しないし世界も変わらないのでもどかしいだろうな、とも。やはり彼女にあるのも諦め、だろうか。真理に捧げる生なのだろうか。 

そういえば、答えが出ない!と思うとき、思い出すことがあって。中学生のとき私は近所の学研教室に通っていた。小学1年生から中学3年生までが同じ机でひとりの先生に習うようなゆるい塾だったので、例えば「詩歌」の問題集が好きだから学年関係なく今ある分は全部解かせて欲しい、と頼むと先生が眼鏡を掛けてあちこちの引き出しからあるだけ出してきてくれる、そんないい所だった。

あるとき、その詩歌のテキストのなかに、中島みゆきの歌が引用された問題があって。永久欠番』という歌だったんだけど、是非歌詞を見てほしい。

歌詞 「永久欠番」中島みゆき (無料) | オリコンミュージックストア 

ほとんどずっと、「誰が死んだところで世界は何ひとつ変わらない」みたいな、当然にして無情なことをずっと言い続ける。この歌どうなっちゃうの、と思ってハラハラしながら読んでいくけどずっとそのトーンのまま。なのに、一番最後になって突然「宇宙の掌の中 人は永久欠番」と言いだす。私は学研の白いプラスチックの机の上でたまげてしまった。
なににたまげたかというと、「めっちゃ飛躍してるじゃん」そして「みゆきが匙投げてるんならこの問題には答えが無いんじゃないの」ということ。
私はその時点で中島みゆきの歌をいくつかしか知らなかったものの、彼女の歌詞の言葉選びを信頼していた。そのみゆきが「誰が死んだところで世界は何ひとつ変わらない」という生命の無常とその虚しさを、「永久欠番」という飛躍した概念の導入でしかひっくり返せないというのなら、これは、えらいことだ、と。そう、今思えば当時中学2年生だった私は、私自身に纏わりつく悩みとしての人の生の無常と虚しさを、みゆきに解決して欲しかったのだと思う。
けれど、もうしばらくして、むしろわざわざ飛躍してまで伝えたかったことは何か、そんなことあり得ないのに「永久欠番」と言い張るのはなぜか、と考えたとき、それはあり得ないこと込みで提示された救いなのかも、と思うようになった。大切な誰か、或いは自分という存在を失っても世界が当たり前に回ってゆくこと、それ自体は当然のことと淡々と歌いつつも、最後に見せる「永久欠番」という言葉への華麗なるジャンプ。これは、そういう現実を受け入れなきゃいけないけど受け入れたくもない人間のギリギリの抵抗からくるジャンプだと。人の生に無常と虚しさは確かにあり否定できず、それとどう付き合うかは答えの出ない問いなんだ、と。それで、私はこの歌詞とそれに伴う気付きを「たぶん真理の箱」にしまうことにした。この箱には経験と思考から得られたごく僅かなものしか入れていない。私にとっての「たぶん真理」しか入っていない大切な箱。

私はもし、この箱の中身とは違ったほうに世界?世の中?身の回り?そうしたものが進もうとするとき、どうしたらよいのだろうね。少なくとも、こういう話を変な顔せずに面白がって聞いてくれる友人がいるということは、とても幸運でありがたいことです。 

私ももうきっと会わない人たちの幸福を願う夜がある。本当は、あなたのこういうところに救われていた、みたいな感謝をきちんと伝えられたら良かったなあとも思うけど。最後だと思って会ったりしていない流れゆく人間関係のなかで、そういえば伝えられなかったなあということのほうが多くなっていく。 

最近は寒かったり暖かかったりして体調さっぱりお整いになりませんね。冬の寒さにやられていた間は「暖かくなるまで地の底を張ってでも生き延びる」という目標を立てていたので、早く完全に暖かくなってアゲアゲ桜フィーバーになってほしい。ちなみに例年に比べれば地の底を這わずに越冬できているので2021の私はいい感じかもしれないです。

*1:程度は軽いので日常に介助はあまり発生せず、力仕事がこっちに全部回ってくるなーくらいの実感でいまのとこ暮らしてます。家族の話については文章を以前『ZINEアカミミ第二号』に載っけていただいておりまして、ZINEアカミミ自体が第一号第二号ともとても面白い、ファンです、ので是非

*2:罪滅ぼしに豆腐を褒めますが豆腐は偉い、私は夏バテしたときは冷や奴ご飯しか食べられなくなるのですがそれで体調を崩したことがない、豆腐ありがとう