次に呑む日まで

呑める日が来るまでの往復書簡

第五便 返信

お久しぶりです、タカシナです。
暖かくなったらテキメンに喉まわりの調子が良くなってきて、自分でも笑ってしまう。乾燥は私にとっての強敵のようです。
ジュン・チャンがこれまでの書簡を読み返した、と言っていたので私もそうしてみた。一便めに書いたこととかもう完全に自分でも忘れていたので少しくすぐったい気持ち、既に過去だね。過去の手紙を箱から取り出して読み返している気分。その時々に思ったことを取り留めなく書く、という行為が後々読み返す楽しみも生むとは、私にとってはあまり考えていなかったことで、いわば棚からぼた餅というやつです。ああ、生協で買ったおはぎをそろそろ解凍してお供えしないとお彼岸が終わってしまう。日々は生活として忙しなく過ぎてゆくね。

 

第五便を読んで、しばらく、返信を書けずにいました。
ジュン・チャンが写真で載せてくれた文章を読み、打ちのめされていた。
まず、冬の深夜の冷え切った空気みたいな、さえざえとした、読んでる間中喉元になにか突きつけられているかのような切迫した印象の文体のことを思った。それは、当時のジュン・チャンにとっての真実しか書いていない文章だからだろうとも。そして、18歳にこのような文章を書かせた経験のこと、私が出会った時点でジュン・チャンが立っていた地点のこと、などを思った。この時期になる度に思うけれど私はずっと、震災のことから逃げてきてしまっているから、何も言えない。言えないなと思って、そのまま、返信を放っておいて、11日も過ぎて、今になってしまった。ごめんなさい。この期に及んで逃げている、自覚はあります。

 

経験していない苦しみに対しては、なにも言うことができない。本当に、ジュン・チャンの言うとおり、「寄り添い見守るくらい」しかできない。でも本当は、もっと知るべき事はあるのだとも思っているんだけど、これは私の怠慢の話だな。
ああ、私のような人のためにジュン・チャンは『この世界の片隅で』のような活動をしているのだね。分かったような気がします。
ツイキャスに残してくれた朗読の練習の履歴を寝る前に聞いているんだけどすぐ寝入ってしまうからなかなか通して聞けなくて、と以前LINEで話したあれは半分本当で少し嘘です。最初にツイキャス音源の存在に気付いたとき、『捜す人 津波原発事故に襲われた浜辺で』の朗読のうちひとつをぱっと再生して、少し聞いて、すぐに内容のつらさに参ってしまったから、これは昼間には聞けないと思ってそれで寝る前に聞くことにした。私が自分の弱さを嫌になるのはこういうときだ。だって否応なしにその現実にさらされているひとがいるのに私は逃げることができるから逃げるって、そんなのずるくないか。そう思うけど、昼間にはやっぱり聞けなくて、深夜に聞いている。


山脇さんの詩集読みたいです。送るよっていってくれたけど甘えていいのかな。逆に私も読み終わった川上弘美のなんかうねうねしてやばい小説を送りつけようかな。送料という概念ね。


そうそう、「伸ばされた手を掴むことより、手を伸ばすことのほうが難しいのかも」のくだりを考えるきっかけになったのは、『少女革命ウテナ』というアニメです。
というか先述の言い回しはあまり正確ではないな、と読み返して自分で驚いたのでより丁寧に言うと、「誰かを救うために手を伸ばすことより、救われるためにその手を掴むことのほうが難しいし、救いを求めて手を伸ばすのはもっと難しい」というのが、私の言いたいことだったように思う。まったく雑な言葉でごめんなさい。
つまり、救いを与える側と救いを求める側ならば、場合にもよるけど後者の方がより高い心理的ハードルを課せられているのではないか、ということ。私には、助けてほしいと手を伸ばすのが簡単な行為には思えなくて、それよりは助ける側に回る方がいくらか楽なんじゃないかなあ、と、そんなひねくれたことを考えていた。非対称性、優位性の問題かな。


昨日LINEしていても思ったけど、自分を無意識にマイノリティ側に入れて考える癖のあることに自覚的にならないといけないな、という自戒とも通じるかもしれない。
私はある属性においてはマイノリティなのかもしれないが、別の属性ではマジョリティ側にいて、だからこそ、マイノリティの顔をした自分のふるまいが無意識的にマジョリティとしての暴力を帯びていないか、考えないといけないな、と。そしてマジョリティはすぐに弱者としてのマイノリティを「助ける」みたいに言いたがるけど、それってどうかな、助ける側に立ちたいからじゃないのかな、とか。
『こんな夜更けにバナナかよ』を読み返す時期なのかもしれない。


終わりに、私が語りたいだけの『少女革命ウテナ』の大好きなシーンの話を(未見の場合に備えネタバレを避けて)します。
ある人はいま、目の前にいる人からまっすぐに救いの手を伸ばされている。この手を取ってくれと懇願されている。だけどその人は、自分が手を取れば相手が取り返しのつかない犠牲を代償に払うことになると知っている。相手は己の身に降りかかる代償のことなど知らないがとにかく、自分の全てを捧げてでもその人のことを救いたいと一念に思っている。その思いも分かるからこそ、「あなたを犠牲にしてまで救われたくはない」「でもあなたが望むのは私がこの手を取ることだ」というジレンマから、その人はボロボロと玉のような涙を流す。この涙の描写がものすごく印象的で、これは相手が犠牲になることを利用してでも自分が救われることを選ばなければならないがゆえのつらさなのだと思った。救う方と救われる方ならどちらがつらいのか、なんてことを考えるようになったきっかけのシーンだ。大変抽象的なアニメであり、これもあくまで私の解釈ですが。


往復書簡の往路と復路、両方経験してなるほどなるほどとなりました。書き出す方と受け取る方では違った意識になるね。
もしよければ、つぎはLINEでじゃんけんでもして勝った方から書き始めて、それ以降は交互に書き初めを担当、とかでどうでしょう。


暖かくなるまで生き延びる、という短期目標はおかげさまでなんとかなりそうな気がしてきたので、次の目標は夏まで生き延びる、ですね。茗荷をたくさん食べる。