次に呑む日まで

呑める日が来るまでの往復書簡

第九便 返信

返信がだいぶ遅れてしまってごめんね。
先日電話した折にも話したかもしれないけど、祖母の在宅介護が徐々にハードさを増しております。今は基本的に月の半分、つまり二週間はショートステイで預かってもらうことになっているので、正味大変なのは残りの二週間だけなんだけど、その二週間にイベントが盛りだくさんという感じで、はあこりゃこりゃです。
さらに、ようやく無事に祖母をショートステイに送り出せたと思ったらおそらくそこまでの無理がたたって超ド級の鬱にはまり、ようやく這い出て今です。この状態に鬱と名前がついてそれと付き合い始めてからもう五年くらいになるのかな、だいぶ付き合い方は分かってきたのだけどそれでも今回みたいに大きい波が来るともう台風みたいなもので過ぎるのをじっと待つしかない。
という、返信が遅れたことの言い訳及び近況報告などをして、久々に文章を書く指を温めております。

前回貰ったジュン・チャンからの書簡には『第九便では、上記備忘録を受けて、タカシナが考えたこと、感じたことを聞いてみたい』とあり、返信を書くならここに触れないわけにはいかないだろうと思った。しかし、備忘録の内容に立ち入って具体的なコメントをするというのはどうにも気が進まないな、という気持ちがあり、その件についてジュン・チャンに電話してみたところ、むしろ備忘録についてより『どうやったら自分事として考える人が増えるのか』の部分についての意見が聞きたいとのことだったので、そういうこととして以下を書く。
ちなみになぜ備忘録の中身そのものについて触れるコメントをしたくなかったかというと、イベントのその場で発された言葉にその場にいなかった私が後から何か言う、という構図が嫌だったから。なんというか、その場の雰囲気に担保された安心感から出た発言も多いだろうし。

「その場の雰囲気に担保された安心感」というのは、もっと開いて言えば、「この場所ではなにをいっても頭ごなしに否定されない、正誤で即座に意見を切られない、いったんきちんと聞いてもらえる」というような前提が参加者のなかにあるということだと思う。電話で話したこととも重なるけれど、「自分事として考える人が増える」ために、はじめの一歩としてそういう場が必要だと思い、創り出したジュン・チャンはすごい。
実際、何を言ってもまずは聞いてもらえて、そのあとで客観的なデータや資料を基に現時点で正しいと考えられている事項を示してもらう、そういう場所が必要なのだと思う。そしてそれはその場のオーナーに非常に胆力が要るのだろうな、とも。間違っている、と思ったときどうしても「それは違う」とたくさん言ってしまう私はそう思う。勝負みたいになってしまったら議論は進まないので、そうではなく、過不足の無い指摘、みたいなのが求められるのかなあ。私の苦手とするところです。

間違っているからって相手に悪気があるとは限らない(結果的にアウトプットが差別的表現になっていたりしたらそれは悪気の有無などではなく結果を指摘しなければならないのだけど)し、自分の言うことだって正しいとは言い切れない(どんなに正しくあろうとしても)、と分かっている。それでも誰かと意見を交換するときに、相手から出た意見をいったん受け止めるというのが難しいときもあって、その傾向はテーマが自分と関わりが深いものであればあるほど強い。有り体に言えば、「あなたになにが分かる」「あなたにはなにも分からない」と相手に言いたくなってしまっている状態だと思う。知識として知っているだけのテーマならまだしも、自分にその問題の欠片が刺さっているようなものだと当事者だということを振りかざして閉じこもりたくなるのかもしれない。否定されることはその刺さっている傷口にまた新たな力を加えられるようなことだから。その痛みも実際に感じたことがない人になぜ傷口を触られなければならない?

ずっと、たまたまそう生まれただけで割合からマイノリティと呼ばれ、権利を得るためには声を上げ立ち上がり社会を動かさなければならない、というのはしんどいし不平等だと思ってきた。自分のことというよりはもっと広い意味で(そもそも私はどうあれ「当事者」でなくマジョリティでは?とも思う、のでこの語り方が正しいのかもあまり自信がない)。本当はそんなことしなくていいはずだしそんなことしなくていい社会にさっさとなればいいのになかなかそうはならない。人一倍頑張らなければ文字通り生きてゆけなくて、その様を見てそうでない人たちは石を投げるか、さもなくば感動の涙を流したりする。それって同じ高さの地平に立った同じ尊厳のある存在への扱いなんだろうか。
それでも、世の中がそういう不平等で溢れているときにただ黙っているだけだと現状を追認していることになる。「あなたには分からない」と言いながらも本当は分かってほしい、それはそう。でも本当に全部分かるのは無理だろうとも思うし全部分かったと言われたらそれはそれでこちらのプライドが多分許さない。同じ経験なんてお互い絶対無理なのに、100%分かるのは無理でしょ、と思う。
だから、相手と7割くらい分かり合えたらそれでいい、というところで止める力、さっき言った胆力みたいなもの、それが必要なのかなあとも思う。これはジュン・チャンの投げてくれた「どうやったら自分事として考える人が増えるのか」の答えにはあまりなってないね。申し訳ない。

「自分事」というのはなかなか難しい言葉だな、と思う。ジュン・チャンが電話で言っていた「自分事」というのは、例えば関連するニュースを見かけた時に無関心で聞き流さず、そこから更に自分で調べたり考えたりする、自分の中でそういう存在に特定のトピックを置くことを指すのかな。それはとても大事な姿勢だと思うし、前回の「セクシャリティ、家族」も今回の「沖縄」も、そうした意味で「自分事」と捉える人が増えればもう少し状況が変わりそうだ、そもそも本来はどちらも「他人事」で済ませて住んでいられる国ではないと思う。自分含め。
その一方で、個別具体の経験や思いに、共感による理解をどこまで寄せてよいものか、とも思う。限界はあるだろう。分かりあえて七割かなあ、と。そもそも「揺らぐ」で行われているのが共感による理解だけとも思っていないし、「揺らぐ」を始まりの場としてそれぞれの方が生活の中へ持ち帰ってゆくものこそが目的なのだろうと企画意図を推察してはいますが。
つまり、「揺らぐ」では既に行われていることだろうけれど、完全な理解だとか合意の形成では無くて、今まで疑いもしなかったなにかが少しでも揺らいで、そこから自分事として考える機会が増えるといいのだよね。時間はかかるけど、きっとそのゆらゆらはずっと続くと思うので。初めから思い切りぶん殴られたら反発するけど、揺らされたら、揺れ続けるしかないので。

全然答えにならないうえにまとまらない返信でごめんね。家を出ない生活は心地の良い揺らぎも不快な揺らがせも少ない代わりにゆっくり何かが手の中から零れていくような感じがします。早く大分に行きたいなあと思って、この書簡の終わりが「会って呑む」とこに設定されていたことに気付く。言い出したころにはそんな日が来るのかしら、と思っていたけれど、いつかこの書簡も終わり顔を突き合わせて延長戦をする日が来るんだろうかね。肝臓鍛えておくね。

追伸
ピルは体質的にNGが出て、代わりに生理をほぼ止めるとやらの薬を飲み始めました。一か月経過し、確かに生理がめちゃめちゃ軽い。これは、すごい。すごいし、どうりで同じ性別間でも生理軽い重いで全然違う景色になるし話がなかなか通じ合わないわけです。一日目に何も気にせず夜眠れるなんて!
生理への憎しみって話はそのうちこの書簡でしたいです。今回書こうとしたら入りきらんかった。