次に呑む日まで

呑める日が来るまでの往復書簡

第十便

こんばんは。タカシナです。随分間があいてしまいごめんなさい。
東京の感染者数と私のメンタル健康度合いは反比例の関係にあるので、最近はずっと鉛の塊が胃のなかにあるような気分で過ごしています。元来怖がりの心配性で最悪の事態を想定するタイプなので、自分や家族がもし体調を崩したりしても適切な医療にアクセスできないであろうという現在の状況はかなりこう、くるものがあります。昨年末も同じような感じだったのですが、今回は緊急事態宣言が出ても感染状況が良くなる兆しが一向にない(そもそもこれまで効き目があったこと自体不思議な感もありますが)ので、なんともはやです。
そちらはいかがお過ごしでしょうか。

第九便の返信で、生理が重いのでピルを飲み始め、その後なんやかやあってピルは体質的に飲めないということになり、今は医師の提案で別のホルモン薬を飲んでいる、という経過を報告したように思う。PMSには効かないし不正出血が多くピルほど使い勝手は良くない薬だが、飲み始めて二か月、身体が慣れてきたのか生理がほぼ無くなってきて身体はかなり楽になった。

鬱時期の過食がたたって過体重だった時期が長かったせいでずっとピルが飲めなかった(肥満はピルの禁忌にあたる)ため、私の中ではピルさえ飲めれば生理から解放されるという思いがずっとあった。しかし今回試してみて、誰でも飲める魔法の薬というわけではないことを知った。そもそも周りのピルユーザーに聞いてみても、きちんと服用していても調子が悪い時には重めの生理が来る人もいるらしく、生理からの完全な開放は遠いのか……となにか暗澹たる気持ちにもなる。結構前、堀江貴文の本の帯に「低用量ピルで女性の働き方改革」という提言があって(リプロダクティブヘルス……)とモヤっとしたのだが、改めて、ピルを飲めば解決!とは言い切れなかったり、そもそも重い軽いから始まってあまりに各個人で経験しているものの違いが大きすぎて、生理についての話し合いは難しいよなあ、と思う。

私の生理が重いのは、毎年検診を受けてそのたび特に悪いところがあるわけでは無いので「体質」という結論になっていて、こんなんマジで生まれつきの運でしかないじゃん……と思う。しかし、生まれつきの運で決まる要素なんていくらでもあるのでそこを嘆いても仕方ない。仕方ないが、重たかったころの生理を思うとよくあんなものを毎月耐えていたものだと思う。家族の女性陣は皆生理が重い人たちだったので、自分の生理が病院で相談するに足るほど重いものかもしれないと思い始めたのは、大学生になって周りの女子と生理の話を大っぴらにできるようになってからだった。そのうち何人かが私の話を聞いて心配して病院を勧めてくれなければ自分では婦人科の受診は考え付かなかったと思う。生理とは「そういうもの」だと思っていたからだ。高校のころ貧血で倒れる子や毎月休む子を見ていたので、そこまでではないし、と判断していたところもある。我慢する必要などなかったのだけど。

これまで世間話として複数人の話を聞いてみても、それぞれの語る「生理」像は各々全く違うので、正直「生理がある女性」というくくりは大雑把すぎて機能しないと思う(そもそも生理の来ない女性だっているのだし)。ごく個人的な意見だが、たとえば最近見られる「生理は恥ずべきものではない」という主張に関しては、文脈は分かるけれども私にとっての生理は排泄と性の入り混じった非常に私的なものであるのでやはり恥ずかしいものだという漠然とした拒否感がある。これは、私が生理のたびに改めて自分が女性であると認識せざるを得なくなり、結果自分の女性としての身体を呪ってしまう点とも関わっているので、本当に極個人的な話なのだが。

変えられないものに対して変えたいと思いを募らせても不毛だな、とはずっと思っている。それに、男性になりたい、とは思っていないから、気持ちの行く先もない。ただ自分が女性としての身体を持っていること、その帯びる意味、のようなものが時々非常に疎ましい。そんなだから、ただでさえ生理で具合が悪い時に「生理はやがて妊娠・出産につながる大切なもの」みたいに言われたらきっとマジで殺意を覚えるだろう。生理ってなんかそういう、女体の神秘的な方面からのポジティブな捉えなおしが多く見られてげんなりする。そういう考え方に救われるひともいるのだろうからあまり悪しざまにも言えないけれど。

ところで、ルッキズムについての連続講座を受けてからもう三ヶ月くらい経つ。今の私は極度に社会との接点が少ない生活を送っているので、家族以外の誰かから見た目について言及される機会は無い。自分の見た目については、もっぱら内なる自分との対話が続く日々だ。
「社会はゆっくり変わる、それまでは生き残るための方策を取る」
講座で言われたこの考え方を時々思い出す。

顔が濃いほうなので、以前メイク講座に行った際には「強い顔が似合うからどんどんやるといいよ」と言われた。事実塗れば塗るほど色々と強くなる顔ではあるのだが、しかしこの「強い」という言葉はなんとなく使い心地が悪い。見た目の話に絞っても、「強い女」というものが私の中で、「自信や自尊心に溢れる美」のようなイメージを持っているからだと思う。そしてそこからは、「美こそが強さ(あなたもそうしましょう)」というような、美を全肯定する圧倒的光のメッセージを感じ取ってしまい、なんとなく怖気づくのだ。強い女は好きだけど私がなりたいのはそれなのか分からない。といって対義語的に「弱い女」になりたいわけでもない。美しくなろうと思うのは自分のためだけど、気がつくとそうではないものに巻き取られていそうで、おしゃれをすることはまだなんとなく怖い。

ルッキズム講座の三回目で提示された「メイクやダイエットや整形(美しくなろうとすること)はルッキズムの強化であり加担ではないか」という問い、それに対する応答としての「長期的にみて社会を変えようと考えることと、短期的に自分が処世することを考えたときに処世のほうを否定しないこと、まずはこの社会を生き延びなければならないのだから」という考え方。まさにそうで、とりあえずはこの私で生きていかなければならなくて、そしてこの日々の生活の中に外見を装うことは思い切り突き刺さって抜けないものなのだから、本来は、たとえそれが構造を強化することだとしても、自分の気に入る自分に近づくことになにもそこまでの罪悪感を持たなくてもよいのだろう。

化粧をすると確かに高揚感や楽しさはある。しかし同時に何かを裏切っているような気分にもなる。何かとは何か、女性らしい恰好を頑なに拒否していたころの自分か。薄々気が付いていたことだけどスカートは楽だ。履くだけである程度の恰好をしている体が取れる。髪も、わざわざ限界まで短くしなくても、同じショートヘアなら耳下まであるほうが概ね無難に普通っぽい。そもそもが個性の発露でなく人々に埋没したいという基準でファッションを選んでいるはずなのに、生まれた身体の性を目立たせないための恰好がしたい気持ちがぶつかってきてどうにもちぐはぐな見た目になる。それを何年か繰り返し、それでも髪は短いほうが落ち着くしワンピースを着ているときには女性のコスプレをしているような感覚がある。私はどうしたって女性であるし、自分のことを女性だと思ってもいるのに。

ちなみにものすごく太っている時、鏡を見るとものすごく太っているので自己嫌悪がすごかったが同時に「ここまで太るともう若い女性というカテゴリーから逸脱した違う何かだな」とも思った。早くおばさんになりたいと思っていた時期があり(おばさん、はそれはそれで乱暴なカテゴライズだと今では思っているが)、結局「女性性」みたいなものの外に行きたいだけなのかもしれない。しかし、外に行った先に特に行くあてはないのだ。

世の中のことを書くのを避けた結果自分の話ばかりになってしまった。世の中のことを書くには今の私は怒りすぎていると判断しました。返信しづらい文章で申し訳ない。内容に対する応答でも、そうでなくても、お返事のんびり待っています。
とにかく暑いのでご自愛ください。そうめんばっかり食べている夏です。