次に呑む日まで

呑める日が来るまでの往復書簡

第十三便 返信

ようやく、ようやく昼間は少しずつ暖かくなってきて、待ち望んでいたはずの春だけど、気は塞いだままだ。原因が自分の中にあるのか外にあるのか、おそらく両方だろうと思いつつ、それでも春は嬉しい。

今回、三篇の詩を贈られて、正直なところ初めは戸惑った。というのも詩の感想に気の利いたことなんて私は言えないから(そんなの気にすることないよー、というジュン・チャンの声が聞こえるようだ)。

それでも言うと、最初に読んだ時から、ジュン・チャンがひとりで歩いていくイメージが浮かんだ。ひとりでいることを受け入れて、ただ淡々と歩いていく姿。その先にはやがて光があるらしい。歩いている今が夜闇のなかだからか。そんな風にしてどこまでも歩いて行ったら一体どこに着くのだろう。ただ歩く背中が小さくなっていく。

二本の足を動かすだけできっとどこにだって行けるのに、私はいつだってどこへだって行けると思っていたいのに、そうもいかないこの二年だった。私達はいまだに会って呑めていない。私は私の足が何のためにあるのか忘れてしまいそうで怖い。遠くへ行くためにある、その筋肉が衰えてゆくのが怖い。
だからジュン・チャンの、足を止めない姿に憧れる。歩き続けてそのあとに道を作るような、分け入ってゆく足取りに。

「言葉で表現することについて、それを受け取ることについて、タカシナが何を考えるか聞いてみたいなあと思う。」
前回の書簡でもらったこの問いかけ。今まで意識したことがなかったから、答えに悩む。

言葉で表現することは私にとってなんなのだろう。分からないけれど、回数は多くないにせよ、しないではいられないことなのかもしれない。語れることよりも語りえぬことのほうがよっぽど多く、それは私が世界を知らないからで、半径の狭いことしか確たる手触りをもって書けない。それに意味があるとは思わないけれど、私は私のために書いている。いつかどこかで見た「あなたはまず読み手ではなくあなたのために書いていい」という意味合いの言葉を心に置いている。私が私をまず第一に救わないといけないから。書くことは時に不思議と上等の救いとなる。

言葉を受け取ることについてはもっと難しい。普段のやり取りの中では言葉はするすると流れて行ってしまうものだから、ずっしりと手応えをもって「受け取った」となる機会は少ない。私が忘れっぽいだけかもしれない。それでも時々宝箱から取り出して眺めるみたいな言葉はあって、たぶん言ったほうはとっくに忘れているような些細なことなんだけど、私が勝手にがっつり受けとって奥の方に仕舞いこんでいる。そうして、いつもは敢えてそれらのことは忘れるようにしている、再生を繰り返して擦り切れてしまったり、別のなにかに変容してしまうのが怖いから。他人から受け取って、そんなふうにナイーブな付き合いをしている言葉もある。

言葉で考え言葉で話して書いてそうして生きてきて、そのなかで言葉は大体において私の味方でいてくれた。これからもそうでいてくれると嬉しい。

そちらはもうだいぶ暖かいのだろうか。3月11日の企画、成功を遠くから祈っているね。