次に呑む日まで

呑める日が来るまでの往復書簡

感想文(2022年9月)

朝夜と秋の匂いがしてきました。

ジュン・チャンです。

9月は京都で実施する企画の準備に慌ただしく、じっくり思考を深める時間が確保できなかった。そんななか読めたラインナップ。

 

【2022年9月】

森鴎外舞姫

② 原田 マハ『〈あの絵〉のまえで』

村田沙耶香『信仰』

上野千鶴子『生き延びるための思想 新版(岩波現代文庫)』


【所感】

森鴎外舞姫

鹿児島でブラリ入った喫茶店で読了。あらすじは知っていたが、「なんちゅー話だ!」と思った。ただただ女が不憫。


② 原田 マハ『〈あの絵〉のまえで』

日常の派手じゃないありふれた話。ありふれたなかにそっと寄り添う絵画の感じがよかった。


村田沙耶香『信仰』

圧巻。村田作品を前にして、丸裸にされない人間なんていないんじゃなかろうか。④の上野先生の本と並行して読んだから、尚更そう感じた。

普段目を瞑ったり、騙されたフリをしたりしている様を、炙り出す。村田作品は、ある意味で暴力であり、ある意味ではこれ以上かい救済であるのかもしれない。


上野千鶴子『生き延びるための思想 新版(岩波現代文庫)』

再読3回目。深澤先生がポリタスTVで取り上げていたのを見て、6〜7年振りに手に取った。試験前に借りたら読み切れなかったので、改めて借りてきた。

本書に収録されている論稿の多くは、2000年代に書かれたものだが、20年近くが経過した今読んでも色褪せることなく、むしろ日本社会が直面する諸課題を意識させる内容だ。

以下、印象に残った箇所をメモ。

[ ミソジニーは男にとっては、他者嫌悪である。が、女にとっては自己嫌悪である。革命兵士になるためには、「女性的なもの」は邪魔だ。邪魔なものは殺せ。これが誰よりもせいいっぱい女性革命兵士たろうとした永田のしたことだった。(P111)

 対抗暴力は、支配権力とのその圧倒的な非対称性において、過大な自己犠牲を要求するために、心情倫理的にロマン化され、その担い手がヒーロー視される傾向がある。目的も手段も正しくはないが、気持ちは純粋だ、というように。この誘惑に抵抗するのはむずかしい。(P113〜114)

 したがって同一化の理論から言えば、「被害者である」というよりは、「被害者になる」と表現したほうが正確だろう。そしてその響きに反して、「被害者になる」ということは、弱さを認めるということより、むしろ加害者に対して自分の正当性を主張するエンパワーメントなのである。(P122〜123)

 暴力は必ず犠牲者を生む。自死が犠牲を相殺するテロリストの倫理である(と、当事者がごつごう主義的にも考えている)ことは、先に述べた。自爆テロで犠牲になるのは、自分自身である。だとすれば、暴力の被害者になるのは、まずそれを行使する者自身であるとは言えないだろうか?暴力を行使する者は、そのことによって暴力のシステムに組みこまれる。犠牲者が他人であっても、自分自身であっても同じことだ。暴力のシステムに主体化=服従することで、彼/彼女は暴力の犠牲になり、自分自身が被害者であることを通じて他人に対して加害者となる。「殺す者」は、いつでも「殺される者」となる。「殺される者」にならないためには、彼らは「殺す者」にならなければならない。国民軍の兵士であれ、革命兵士であれ、兵士とは、まず第一に自己犠牲に合意した者たちの集団ではなかったか。したがって兵士もまた、というより兵士こそ、誰よりもまず、暴力の被害者である。(P131)]

(Ⅰ女性兵士という問題系 3対抗暴力とジェンダー)


[「個人的なことは政治的である」というフェミニズムのスローガンは、四半世紀にわたる洗練を経て、今や「私的な領域とは公的に作られたものである」という命題に至っている。公的な領域とは、いうまでもなく政治、すなわち公的権力の領域である。そして私的な領域が公的に、すなわち政治的につくられたということは、私的な領域には私的な政治が、したがって私的な権力が存在することを示唆する。公的な領域の大文字の「政治」ばかりが、政治ではない。フーコー以後、権力は身体や言説に係わるミクロの政治をさすようになった。

 そうなれば私的な領域とは、公的な権力の介入を拒否する「聖域」、すなわち私的権力が支配する「聖域」であって、だからこそ私的権力が公的権力の統制なしに横行する「無法地帯」だと言ってもよいのだ。

 わたしが解きたい謎は、この公的権力と私的権力の結託の共犯関係が、いかに成り立ったかということである。だが、この謎も種明かしをしてみれば、たいした謎ではない。両者は家父長制的な権力のふたつのあらわれとして、首尾一貫性を持っているからだ。

 公的な権力は「男性同盟」[Tiger1969=1976]のホモソーシャルな関心から合意形成され、他方、私的な権力はその男性同盟の正統な成員の資格を持った者たちに、権利として保障されたものである。「ホモソーシャル」という概念は、ホモセクシュアルと区別してセジウィック[Sedgwick1990=1999]によって定義され、ヘテロセクシュアルな男性性を分析するための強力なツールとなった。男性同士のあいだにあるホモセクシュアリティを抑圧する(ホモフォビア)ことをつうじて、ヘテロセクシュアルなな男性は互いの同一性の絆(ホモソーシャリティ)を確立する。そしてヘテロセクシュアリティとは、客体の位置におかれた女性を、お互いのあいだに配分するための制度なのである。(P140〜141)

 そう考えれば、私的な暴力とは男性性の定義の中にねぶかく組みこまれていることがわかる。わたしは長いあいだ、「暴力をふるう夫」が「暴力をふるわれる妻」にくらべて、なぜ社会的にも個人的にも病理化されないのか、疑問を持ってきた。心理学やカウンセリングのなかでは、暴力をふるわれながらその状況から脱けだせない妻が、「共依存」の名のもとに病理化されてきた。もしかしたらそれは「心理の病」ではなく、たんに「離婚しなくてもできない」という「制度の欠陥」にすぎないかもしれないというのに。(P144)

 プライバシーとは、市民社会が男性に与えた市民的特権であった。近代の曲がり角に立ったわたしたちは、近代を延命するようなどのような動きも反動的だと宣告する。市民的特権としてのプライバシーは終わったし、解体されるべきである。ただし、それが私領域のさらなる国家化を招くことだけは、ごめんこうむりたい。(P147)]

(Ⅰ女性兵士という問題系 4プライバシーの解体)


[ 戦争は過程で、平和は状態だ、と中井さんは言う。過程はいったん動き出したらとまらなくなるが、状態は不断のエネルギーで維持しつづけなければならない。それもあらゆる退屈と不平、不満、空虚に耐えながら。こんな作業がおもしろいはずがない。だから、戦争のプロパガンダの前に、平和運動はしばしば敗北してきた。

 戦争は魅力的だ。実際の戦争はともかく、少なくとも戦争へとわたしたちを動員することばには、抗しがたい魅力がある。そのことは知っておいたほうがよい。平和を維持するには、その悪魔のささやきのような魅力の罠にはまらないように、耳ざとく臆病なウサギのように、ずるがしこいキツネのように、いつでも敏捷に警戒を怠ってはならない。中井さんはそう、わたしたちに警告を発しているように思える。自分の持ち時間が少なくなったと自覚して。(P156)]

(Ⅱ戦争の犯罪化 1戦争は「魅力的」か?)


[ 「どのような暴力なら、どのような条件の下で免責されるか」、という問いは言いかえれば、「正義の暴力はあるかないか」という問いに答えることにつながる。これに対するフェミニズムの答えは、一つしかない。それは「正義の暴力はない」という答え、すなわち「あらゆる暴力の犯罪化」である。それには、公的暴力の犯罪化とともに私的暴力の犯罪化をも含んでいる。最近になってようやくDV(ドメスティック・バイオレンス)が問題化されるようになったように、私的領域で非犯罪化されてきた暴力を犯罪化する動きに、フェミニズムは一歩を踏み出した。(P195)

 フェミニズムはあくまでマイノリティの思想であったとわたしは思っている。マイノリティというのは、この世の中でワリを食った、差別を受けた、弱者の立場に立つ人々のことである。フェミニズムは「女も男なみに強者になれる」と主張してきた思想ではなく、「弱者が弱者のままで尊重される思想」だったはずだ。(P197)

(Ⅱ戦争の犯罪化 3フェミニズムから見たヒロシマ)


初めて読んだ学生の頃よりも、より一層内容が滲みてくるようになった。今まさに、変化の狭間で膿のようにいろんなものがふきだしている。

そんななか、本書は考え続ける補助線として機能してくれている。