次に呑む日まで

呑める日が来るまでの往復書簡

感想文(2022年9月)

朝夜と秋の匂いがしてきました。

ジュン・チャンです。

9月は京都で実施する企画の準備に慌ただしく、じっくり思考を深める時間が確保できなかった。そんななか読めたラインナップ。

 

【2022年9月】

森鴎外舞姫

② 原田 マハ『〈あの絵〉のまえで』

村田沙耶香『信仰』

上野千鶴子『生き延びるための思想 新版(岩波現代文庫)』


【所感】

森鴎外舞姫

鹿児島でブラリ入った喫茶店で読了。あらすじは知っていたが、「なんちゅー話だ!」と思った。ただただ女が不憫。


② 原田 マハ『〈あの絵〉のまえで』

日常の派手じゃないありふれた話。ありふれたなかにそっと寄り添う絵画の感じがよかった。


村田沙耶香『信仰』

圧巻。村田作品を前にして、丸裸にされない人間なんていないんじゃなかろうか。④の上野先生の本と並行して読んだから、尚更そう感じた。

普段目を瞑ったり、騙されたフリをしたりしている様を、炙り出す。村田作品は、ある意味で暴力であり、ある意味ではこれ以上かい救済であるのかもしれない。


上野千鶴子『生き延びるための思想 新版(岩波現代文庫)』

再読3回目。深澤先生がポリタスTVで取り上げていたのを見て、6〜7年振りに手に取った。試験前に借りたら読み切れなかったので、改めて借りてきた。

本書に収録されている論稿の多くは、2000年代に書かれたものだが、20年近くが経過した今読んでも色褪せることなく、むしろ日本社会が直面する諸課題を意識させる内容だ。

以下、印象に残った箇所をメモ。

[ ミソジニーは男にとっては、他者嫌悪である。が、女にとっては自己嫌悪である。革命兵士になるためには、「女性的なもの」は邪魔だ。邪魔なものは殺せ。これが誰よりもせいいっぱい女性革命兵士たろうとした永田のしたことだった。(P111)

 対抗暴力は、支配権力とのその圧倒的な非対称性において、過大な自己犠牲を要求するために、心情倫理的にロマン化され、その担い手がヒーロー視される傾向がある。目的も手段も正しくはないが、気持ちは純粋だ、というように。この誘惑に抵抗するのはむずかしい。(P113〜114)

 したがって同一化の理論から言えば、「被害者である」というよりは、「被害者になる」と表現したほうが正確だろう。そしてその響きに反して、「被害者になる」ということは、弱さを認めるということより、むしろ加害者に対して自分の正当性を主張するエンパワーメントなのである。(P122〜123)

 暴力は必ず犠牲者を生む。自死が犠牲を相殺するテロリストの倫理である(と、当事者がごつごう主義的にも考えている)ことは、先に述べた。自爆テロで犠牲になるのは、自分自身である。だとすれば、暴力の被害者になるのは、まずそれを行使する者自身であるとは言えないだろうか?暴力を行使する者は、そのことによって暴力のシステムに組みこまれる。犠牲者が他人であっても、自分自身であっても同じことだ。暴力のシステムに主体化=服従することで、彼/彼女は暴力の犠牲になり、自分自身が被害者であることを通じて他人に対して加害者となる。「殺す者」は、いつでも「殺される者」となる。「殺される者」にならないためには、彼らは「殺す者」にならなければならない。国民軍の兵士であれ、革命兵士であれ、兵士とは、まず第一に自己犠牲に合意した者たちの集団ではなかったか。したがって兵士もまた、というより兵士こそ、誰よりもまず、暴力の被害者である。(P131)]

(Ⅰ女性兵士という問題系 3対抗暴力とジェンダー)


[「個人的なことは政治的である」というフェミニズムのスローガンは、四半世紀にわたる洗練を経て、今や「私的な領域とは公的に作られたものである」という命題に至っている。公的な領域とは、いうまでもなく政治、すなわち公的権力の領域である。そして私的な領域が公的に、すなわち政治的につくられたということは、私的な領域には私的な政治が、したがって私的な権力が存在することを示唆する。公的な領域の大文字の「政治」ばかりが、政治ではない。フーコー以後、権力は身体や言説に係わるミクロの政治をさすようになった。

 そうなれば私的な領域とは、公的な権力の介入を拒否する「聖域」、すなわち私的権力が支配する「聖域」であって、だからこそ私的権力が公的権力の統制なしに横行する「無法地帯」だと言ってもよいのだ。

 わたしが解きたい謎は、この公的権力と私的権力の結託の共犯関係が、いかに成り立ったかということである。だが、この謎も種明かしをしてみれば、たいした謎ではない。両者は家父長制的な権力のふたつのあらわれとして、首尾一貫性を持っているからだ。

 公的な権力は「男性同盟」[Tiger1969=1976]のホモソーシャルな関心から合意形成され、他方、私的な権力はその男性同盟の正統な成員の資格を持った者たちに、権利として保障されたものである。「ホモソーシャル」という概念は、ホモセクシュアルと区別してセジウィック[Sedgwick1990=1999]によって定義され、ヘテロセクシュアルな男性性を分析するための強力なツールとなった。男性同士のあいだにあるホモセクシュアリティを抑圧する(ホモフォビア)ことをつうじて、ヘテロセクシュアルなな男性は互いの同一性の絆(ホモソーシャリティ)を確立する。そしてヘテロセクシュアリティとは、客体の位置におかれた女性を、お互いのあいだに配分するための制度なのである。(P140〜141)

 そう考えれば、私的な暴力とは男性性の定義の中にねぶかく組みこまれていることがわかる。わたしは長いあいだ、「暴力をふるう夫」が「暴力をふるわれる妻」にくらべて、なぜ社会的にも個人的にも病理化されないのか、疑問を持ってきた。心理学やカウンセリングのなかでは、暴力をふるわれながらその状況から脱けだせない妻が、「共依存」の名のもとに病理化されてきた。もしかしたらそれは「心理の病」ではなく、たんに「離婚しなくてもできない」という「制度の欠陥」にすぎないかもしれないというのに。(P144)

 プライバシーとは、市民社会が男性に与えた市民的特権であった。近代の曲がり角に立ったわたしたちは、近代を延命するようなどのような動きも反動的だと宣告する。市民的特権としてのプライバシーは終わったし、解体されるべきである。ただし、それが私領域のさらなる国家化を招くことだけは、ごめんこうむりたい。(P147)]

(Ⅰ女性兵士という問題系 4プライバシーの解体)


[ 戦争は過程で、平和は状態だ、と中井さんは言う。過程はいったん動き出したらとまらなくなるが、状態は不断のエネルギーで維持しつづけなければならない。それもあらゆる退屈と不平、不満、空虚に耐えながら。こんな作業がおもしろいはずがない。だから、戦争のプロパガンダの前に、平和運動はしばしば敗北してきた。

 戦争は魅力的だ。実際の戦争はともかく、少なくとも戦争へとわたしたちを動員することばには、抗しがたい魅力がある。そのことは知っておいたほうがよい。平和を維持するには、その悪魔のささやきのような魅力の罠にはまらないように、耳ざとく臆病なウサギのように、ずるがしこいキツネのように、いつでも敏捷に警戒を怠ってはならない。中井さんはそう、わたしたちに警告を発しているように思える。自分の持ち時間が少なくなったと自覚して。(P156)]

(Ⅱ戦争の犯罪化 1戦争は「魅力的」か?)


[ 「どのような暴力なら、どのような条件の下で免責されるか」、という問いは言いかえれば、「正義の暴力はあるかないか」という問いに答えることにつながる。これに対するフェミニズムの答えは、一つしかない。それは「正義の暴力はない」という答え、すなわち「あらゆる暴力の犯罪化」である。それには、公的暴力の犯罪化とともに私的暴力の犯罪化をも含んでいる。最近になってようやくDV(ドメスティック・バイオレンス)が問題化されるようになったように、私的領域で非犯罪化されてきた暴力を犯罪化する動きに、フェミニズムは一歩を踏み出した。(P195)

 フェミニズムはあくまでマイノリティの思想であったとわたしは思っている。マイノリティというのは、この世の中でワリを食った、差別を受けた、弱者の立場に立つ人々のことである。フェミニズムは「女も男なみに強者になれる」と主張してきた思想ではなく、「弱者が弱者のままで尊重される思想」だったはずだ。(P197)

(Ⅱ戦争の犯罪化 3フェミニズムから見たヒロシマ)


初めて読んだ学生の頃よりも、より一層内容が滲みてくるようになった。今まさに、変化の狭間で膿のようにいろんなものがふきだしている。

そんななか、本書は考え続ける補助線として機能してくれている。

感想文(2022年8月)

秋雨前線と台風から始まった9月。九州からジュン・チャンです。今回のは長いです。

【2022年8月】

(映画)

① 満若勇咲監督『私のはなし 部落のはなし』

(本)

峠三吉『原爆詩集 (平和文庫)』

② ルーシー・M. ボストン/亀井俊介 訳『グリーン・ノウ物語〈1〉グリーン・ノウの子どもたち (児童図書館・文学の部屋)』

③ 辻村 深月『ツナグ (新潮文庫)』

④ 加藤有子『ホロコーストヒロシマ――ポーランドと日本における第二次世界大戦の記憶』

⑤李 琴峰『彼岸花が咲く島』

⑥くどうれいん『氷柱の声』


【所感】

(映画)

① 満若勇咲監督『私のはなし 部落のはなし』

部落問題について関心を持ったのは、高校生の時だった。くるくる天パの日本史の先生が溢れ話をしてくれて、それから気になっていたが、もともと身近に部落がなかったためか(もしかしたらあったのかもしれないが、関西よりも東北は少なかったというのは何かで聞いた)、歴史的背景はなんとなく理解しつつも、現状はよくわからないまま大人になってしまった。

それがまた身近になったのは、就職してからだった。組織柄もあってか、新卒向けの説明会で同和問題についての時間があったのだ。また、初任地が関西だったことから、部落問題に限らず、在日朝鮮人への差別、貧困問題について、ほんの一部だが見聞きすることになった。

本作は3時間以上に及ぶ上映時間だが、観終わったらあっという間だった。観ていて思ったのは、監督による主張・軸が薄く感じられたことだった。

が、エンドロールに載っていた参考文献を見て見方が変わった。人は知りすぎると身動きが取れなくなることがある。そんな中で、自分の選択・行動を左右するのは、目の前で起きているリアルな出来事だ。本作では、部落出身者、部落の傍らにあった住人等、広く語りを集めることで、ただひたすらに今ある差別の現実をつきつけている。いとうせいこう『福島モノローグ』を思い出した。この本は、ひたすらに被災した女性達の語りのみを掲載したものだった。

映画では、10代の若者が語り合う場面で、差別的な発言を受けた場合の耐性づくりについての語りがあった。何で読んだのか定かではないが、津波原発による被害に遭った福島では、将来差別的な発言をされた際に、子どもが冷静に説明できるように教育している取組があった。いつも「耐性」を強いられるのは、差別される側だ。不均衡以外のなんでもない。

作中、鳥取ループ・示現舎合同会社代表である宮部氏への取材場面もあった。鳥取ループ・示現舎による「部落地名総鑑」出版とネット公開については、自分は前職の研修で知り、直感的に背筋が凍りついたのを覚えている。作中、質問に答える宮部氏は、自身の論を一見すると論理的に話しているようにも見えた。

しかし、実際に継続しているネット上を中心に拡散し続ける差別発言や、今後自身が受けると想定される差別について悩む10〜20代数人の語りを目の当たりにした時に、宮部氏の時に熱い語り口は、状況を面白がっているかのようにも見えてしまった。おそらく、この視聴者からの見え方について、宮部氏としては映像製作者の恣意性を問うことだろう。あるいはそこまで納得して出演したのか。正直、出演についてはちょっとびっくりした。

差別はなくならないだろう。特に日本では。それでも、臭い物に蓋をしたままではいられない。知ってしまったからには、もう知らなかった時には戻れない。

 

(本)

峠三吉『原爆詩集 (平和文庫)』

被爆者の体験を語り継ぐツールとして、紙芝居が多いことは知っていた。自分が何かできないか考えた時に「詩集もあるのではないか」と思い、図書館で調べたら本書と出会った。

広島の原爆投下直後を表したと思われる詩から、徐々に戦後の様子を描いた内容へとシフトしていく。

自分は中学生の時に、受験対策で半年間通った塾で、なぜかある講師が原爆投下直後の話をしてくれた。その時に聞いた、被爆した身体の状態について、今でも覚えている。講師から聞いた内容がまざまざと思い出される詩だった。言葉にならないくらいに、むごいことだ。

そんなむごい経験を無視して、核兵器を持つべきだ、原発再稼働だ、と言う議員や有識者、一市民は、本当に未来世代のことを考えているのだろうか。目先の利益や勢い、雰囲気に乗っかるのではなく、調べて、考えて、現実的かつ持続可能な方法を見出していくべきではないか。戦争文学は、今を生きる私達の照射だ。


② ルーシー・M. ボストン/亀井俊介 訳『グリーン・ノウ物語〈1〉グリーン・ノウの子どもたち (児童図書館・文学の部屋)』

上橋菜穂子先生が幼少期に読み、影響を受けた一冊。やっと読んだ。同じイギリスの児童文学でも、サトクリフの『太陽の戦士』とはまた毛色が異なる作品だった。主人公が休暇を過ごす祖母宅での、不思議な、けれど穏やかな日々を描いている。実母を亡くした主人公の、静かな成長が垣間見れる。描写の一つ一つが繊細で丁寧だ。もっと余裕がある時に、じっくり味わって読みたい。


③ 辻村 深月『ツナグ (新潮文庫)』

去年異動した後輩の置き土産。その後輩は何気なく素敵な本のチョイスをするなあと、本書を読んでしみじみ思った。丸っと一日ゆっくり読める日があって、一気に読んだ。生者と死者を繋ぐ者、「使者」と書いて「ツナグ」。死者への面会を望む生者、面会を引き受ける死者、そしてツナグをめぐる物語。消費の象徴のようだが正直に言う、「長男の心得」「待ち人の心得」で鼻垂らして泣いた。

一方で、「親友の心得」ではヒヤッとさせられた。最後に配置された「使者の心得」で補足がなければ、モヤっとしたままの読後感で終わっていただろう。

印象に残った最後の部分を抜粋する。

[ 失われた誰かの生は、何のためにあるのか。どうしようもなく、そこにある、逃れられない喪失を、自分たちはどうすればいいのか。

 嵐は多分、それでも御園によってあそこに立たされていた。御園がもし、生きていたら自分をどう見るか。彼女は多分、失われた親友の目線をずっと自分の中に持つ。たとえ彼女がもう消えて、一生会うことができなくても。

 雨の中に立つ平瀬愛美の中にも、だとすれば今、水城サヲリの影がいるのだろうか。アイドルってすごい、と洩らした感嘆の声を内に持ちながら、彼女にあり得たかもしれない生を代わりに生きる。

 それは確かに、誰かの死を消費することと同義な、生者の自己欺瞞かもしれない。だけど、死者の目線に晒されることは、誰にだって本当は必要とされているのかもしれない。どこにいても何をしてもお天道様が見てると感じ、それが時として人の行動を決めるのと同じ。見たことのない神様を信じるよりも切実に、具体的な誰かの姿を常に身近に置く。

 あの人ならどうしただろうと、彼らから叱れることさえ望みながら、日々を続ける。(P414)]

辻村深月、短く、静かだが圧巻の物語だった。


④ 加藤有子 編『ホロコーストヒロシマ――ポーランドと日本における第二次世界大戦の記憶』

毎年このくらいの時期になると、図書館でちゃんと歴史認識の新着図書が並ぶことに、僅かながら希望をかんじている。

本書では、2018年に行われた国際シンポジウムを基にして、ポーランド、日本の研究者、著述家による、社会的記憶をめぐる論考がまとめられている。編者による序章において、本書の問題意識や目的がまとめられているので、長いが抜粋する。

[自国側の加害の事実の浮上とその認識の定着、それに対するバックラッシュという歴史認識の基本的流れと記憶のポリティクスの問題は、現在の日本とポーランドに共通している。(P2)]

[このように、第二次世界大戦の出来事の社会的記憶は、単一の出来事の記憶としてではなく、相互に絡み合い、冷戦期から今日まで、国際的、国内的政治空間のなかで変容している。ホロコーストヒロシマをキーワードにすることで、第二次世界大戦の記憶を冷戦期からソ連解体・東欧の体制転換後の変化も踏まえ、日本も含めて国や地域を越えた相関性のなかに捉える糸口になるのではないかと考えた。(P3〜4)]

[本書が目指すのはホロコーストと原爆という二つの出来事の比較ではなく、その犠牲の度合いや性質の比較でもないことは、誤解のないよう強調しておきたい。比較のさいの焦点はその関係性であり、さらに個々の論考を通して浮かび上がる出来事の記憶や言説、その構築のプロセスとメカニズムにある。(P4)]

[本書の目的は三つある。第一に、ポーランドにおけるホロコーストをめぐる現状と最新の研究を紹介すること、第二に、日本におけるホロコーストヒロシマ、そして日本の侵略と植民地支配に関わる出来事の記憶や語りをめぐる状況を日本以外に視野を開いて分析すること、第三に、それらを通して、ポーランドと日本の記憶の現状の類似性を浮かび上がらせ、アジアとヨーロッパにおける第二次世界大戦の記憶の比較研究の視野を開くことである。(P5)]

[(中略)表現の自由や検閲の問題として、美術、文化行政、法学など、さまざまな領域で議論が展開されたが、核にあるのは日本の侵略戦争と植民地支配の歴史と戦争責任をめぐる歴史認識の問題である。それが二十一世紀の日本において、依然として、あるいはいっそうタブー化されて、公的言説から排除されている現実が明らかになった。現在起きていることを点ではなく、線として浮上させるためには歴史的視野が不可欠である。本書は中長期的な視野で歴史認識問題の現状を考える論考を含み、こうした状況に対する学術界からの応答のひとつとも言える。ポーランドの事例との比較は、日本の現状を考える手がかりにもなるはずだ。(P23)]

[ ポスト植民地主義時代と言われて久しい今もなお、偏狭なナショナリズムは旧来の二項対立的な優劣の枠組みにもとづく思考のもとに、人種差別や性差別と容易に結びつく。そして、「他者」と認定した集団や個人にレッテル張りをし、その存在を否定し、その人格や権利を否定する行為をさまざまなかたちと規模で正当化していく。それが国家の方針と一致した結果が、第二次世界大戦およびそれに至る日本の戦争のなかでの市民の殺戮や性暴力であった。修正主義の生成の検証と現在進行形の動きの注視、政治的動きに対する学術的視点からの批判的検討は、世界各地で稼働する差別的思考にもとづくこのメカニズムを抑制し、解体し、未然に防ぐための行動でもある。(P30)]

 自分が近年感じてきた問題意識とも一致する内容だった。日本で生じている状況だけだと視野が狭まるが、本書を通して俯瞰してみることができた。

 以下、大事な示唆だと思った箇所をメモ。

[(中略)こうしたら比較的長い歴史を持つ議論の系譜を意識しつつ、私はここで、「社会的記憶」としての「戦争の記憶」を、過去の戦争あるいはその中での出来事について形成された「社会的表象」の全体、と理解しておくことにしたい。それは、過去の戦争について後の世代がどのように知り、想像し、語っていくのか、ということによって形成される。(P165〜166)

 (中略)私たちは戦争や戦争中の出来事について、直接の記憶をもつ人の証言からだけでなく、テレビや映画のドラマやドキュメンタリー、ジャーナリズム報道、資料館や博物館の展示、文学作品、歴史書や歴史教科書、等々のさまざまな媒体から情報を取得し、各人それぞれの表象を形成するが、それらが全体として集まって、戦争や戦争中の出来事についての社会的表象を形成する。それを当の社会がもつ「戦争の記憶」と呼ぶならば、それの「継承」という課題とは、私たちがどのような社会的表象を形成し、伝えていくのが望ましいのか、という課題だと言うことができよう。(P166)

(第二部 記憶のポリティクス 高橋哲哉「第5章 戦後七〇年を超えてー現代日本の記憶のポリティクス」)]

[ 日本において、アウシュヴィッツに象徴されるホロコーストが頻繁に言及される理由には、もちろん日本が直接の加害者ではない語りやすさもあるだろう。しかし、その語りやすさは日本軍の加害行為(南京虐殺のほか、七三一部隊など)のタブー化によって裏打ちされ、強化されるものだった。一九六五年から九七年まで続いた家永教科書裁判が広く知らしめた教科書検定のように、そのタブー化とタブー化による忘却は政治レベルで行われた。加害の後景化はもちろん、その責任主体や天皇の責任問題の後景化とも表裏一体である。このように、平和運動におけるホロコーストの前傾化は、市民側の動機の問題ではなく、戦後日本の歴史認識の問題に関わっている。タブー化と語りの回避によるいわば受動的な修正主義が戦後、静かに進行していた。その性質が変わり、顕在化するのが一九九〇年代である。(P255)

(中略)

 ヒロシマアウシュヴィッツを並置する冷戦期の平和主義的言説は、時に南京を加え、日本の加害の過去も視野に入れて展開した。しかし、二〇〇〇年代に入って、南京が象徴する日本の加害の歴史が公的言説から排除されつつある。「ヒロシマアウシュヴィッツ・南京」という並列から南京が抜け、「ヒロシマアウシュヴィッツ」という犠牲に焦点化した二項的連想が定着していく。それでもなお多方向に参照先をもつはずの平和主義的標語の「ヒロシマアウシュヴィッツ」は、皮肉にも今日、日本の加害が忘却され、消去されつつある日本の修正主義的現状を映し出す、二義性を帯びた標語になっている。(P259)

(中略)

ヒロシマアウシュヴィッツ」の平和運動の語りは、市民の被害と苦しみに焦点化しながら、「私たち」を主語に戦争とその出来事を二度と繰り返さないことを誓う行為遂行的な語りである。それは連帯を可能にし、現在と未来の行動を方向づける一方、出来事の生起の因果関係と責任主体に触れることを回避する。本稿で取り上げた平和運動は、日本の侵略と加害を念頭に活動しており、それゆえに国際的に受け入れられた。それでも、被害の焦点化と「被害者」の一元化によって、ナチのユダヤ人政策や対外政策を支持した枢軸国としての日本の間接的な関与と加担、総力戦遂行を可能にした日本国内の状況、弾圧された反対派という内的被害者の存在などが、後景に退いてしまう。特定の歴史的出来事を扱いながらも、その語りは逆説的に非歴史的で非政治的な性質を帯びている。(P260)

(中略)

 戦中の日本の外交文書では、「世界平和」が国是として、対外進出の根拠として頻用されていた。「核の平和利用」においても、「平和」という言葉は利用された。近年でも国家の武力行使の場において、平和をその理由に挙げる例には事欠かない。「戦争」と「平和」が二項的に対置される言説への慣れのなかで、「平和」が多様な文脈で使用された歴史も忘却されている。「平和」という言葉が、視点の取り方であらゆる行為の正当化に転用されうることも踏まえ、平和主義的言説を読み直し、今後のその変化を歴史的に捉える必要がある。(P262)

(第三部 ホロコーストと日本、世界とヒロシマ 加藤有子「第8章 日本におけるホロコーストの受容と第二次世界大戦の記憶ー「ヒロシマアウシュヴィッツ」の平和主義言説」)]

[ 「犠牲者を人間とは見ないことで自分自身が人間でなくなる」という堕落、そしてそんな「堕落」を周囲が、あらかじめであれ、事後的にであれ、容易に赦してしまうという連鎖を断つこと。「被害者」をなくすためには、「人間」を「加害行為」へと導いていく条件を丁寧に可視化していくことから始めるしかないように思う。(P304〜305)

(第三部 ホロコーストと日本、世界とヒロシマ 西成彦「第9章 処刑人、犠牲者、傍観者ー3つのジェノサイドの現場で」)]


⑤李 琴峰『彼岸花が咲く島』

読書記録によると、昨年8月にも、自分は著者の作品を読んでいたらしい。

著者のこれまでの作品とは異なり、仮想の島を舞台にした話というのは聞いていたが、ファンタジーと呼ぶにはあまりに社会的だった。いや、ファンタジーというものが、ある意味では社会的なんだが。

著者のこれまでの作品を読んでから読むと、問題意識を含め楽しめる。そういう意味では、他の作品ともある意味繋がっている作品だった。

最後の2人の決断は、どんな未来に繋がっていくのだろうか。


⑥くどうれいん『氷柱の声』

つい最近まで、「自分なんかが語ることではない」という感覚、「生き残ってしまった(なぜ自分なんかが)」という感覚があった。少なくとも大学生の頃までは顕著だった。語ることを躊躇ってきた自分が語り出したのは、2019年に別府へ流れ着いてからだった。それくらい、時間が必要だった。

以下に、著者のあとがきを引用する。

[ 書き終えて感じたのは「震災もの」なんてものはない。ということだ。多くの方が「話せるほどの立場」ではないと思っているだけで、二〇一一年三月十一日以降、わたしたちの生活はすべて「震災後」のもので「『震災もの』の人生」だ。どこに暮らしていたとしても、何も失わなかったと思っているとしても。だから、この作品は「震災もの」ではない。だれかの日常であり、あなたの日常であり、これからも続くものだと思う。(P119)]

自分はいつか東北に戻るのだろうか。

第十五便

ご無沙汰、ジュン・チャンです。

九州は殺人級の暑さが続いているけど、僕は食って寝てなんとか生きている。東京はもっと暑そう、タカシナは無事だろうか。久々に食べたしろくまアイスが激うまに感じた。

国試が終わって、今度は引越しに仕事の準備で、相変わらず慌ただしく過ごしている。もっとゆっくり、本読んで研究して過ごすはずだったんだけどなあ。こりゃ性分と流れだ、と諦めている。

 

さて、第十四便では以下の問題提起で結んでいる。

今回は、このことについて考えたことを、ウダウダ書いていく。

本題にも繋がる話題として、7月の参議院議員選挙についても触れたい。

白米炊けた。としては、選挙期間中、選挙後で2回、以下のようなお話企画を実施した。

選挙だよ!全員集合!『参議院議員選挙、どうする?』では20代から50代の方が10名ほど、各地から参加してくれた。

一方で、選挙おつかれ!ふて腐れ企画『宴のあとに ~我々は何度でも立ち上がる~』では30〜40代4名、20代1名の参加だった。

二つの企画を実施するにあたって、街で遭遇した方と政治について話す機会が増えた。そうした機会や、何個か行った街頭演説を経て思ったのが、以下のことだった。

特に思ったのが、たとえ自分が支持する政党だとしても、迎合しきれないな、という点だ。組織である以上は必ずイデオロギーがあり、どのような名目であれそこで提供される情報や学習内容に影響があることは必定。組織が大きくなればなるほど、上下関係や優劣が生じることも防ぎようがない。もちろん、組織として動くからこそ、具体的な問題解決が進むという実利もある。しかし、自分はあくまで一市民として、何らかの政治的圧力や影響を受けることなく、社会問題や政策のことを考えぬきたいと思った。ここまではただの感想と決意で、ちと話が逸れた。

 

今回の選挙において、核兵器所有や軍事増強に重きを置く公約が散見された。社会保障に関する公約も各政党で見られたが、現在岸田政権が強調しているのは前者の国防強化であるように、軍事増強に色めき立つような雰囲気さへなかったか。ロシアによるウクライナ侵攻があったから、国防強化に飛びつく人の気持ちもわからない訳ではないが、個人的にはまず外交努力が優先されるべきだと考える。

日本がアジア諸国に対して行った侵略は、戦後の謝罪や補償を一度したからチャラになるものではない。事実として世界に記憶されている。自分達が行った加害を認め、向き合い続けることはしんどい。でも、それはずっとやり続けなきゃいけないことだ。逃れられるものでは決してない。それを棚に上げて軍事増強、国防強化と謳うのは、第二次世界大戦での日本の行いについて、反省が見られないと諸外国から見られても仕方ない。こう話すと「自虐史観が子どもの自己肯定感を低下させている」と話す人が身近に本気でいたが、はっきり言ってそれは別の議論である。

 

加害の事実を否定し、蓋をして被害に遭った側を糾弾する、果ては責任を取ろうとしない。この構図がどうしても、性的マイノリティや部落出身者・外国人労働者在日朝鮮人等に対する人権侵害や、沖縄に押し付けている基地負担、性暴力被害者が置かれる状況、といったあらゆる社会問題に重なって見える。

身近なもので言えば、ハラスメントもそうだと思う。自分に都合の良いように相手に要求を呑んでほしいから起きることでもある。でもこれって、絶対自分の中にもあるよな、と思うのだ。自分が誰かを傷つけた事実を認めるのも、自分が傷つけられたことを認めるのも、両方しんどい。だからこそ、ハラスメントや性暴力の問題は難しいのだと思う。政治家にしろ、演出家にしろ、力を持つ側は、自分が持つ力にもっと自覚的であるべきだ。

自分は企画をしたり、対話の場をつくったりする者として、いつもどこかで「こわいなあ」と漠然と思っている。自分の発する言葉や振る舞いの一つ一つがどう作用するのか、無意識にめちゃくちゃ考えているような気がする。

 

ウダウダ書きすぎてまとまりがないことは分かっているけど、タカシナに送ります。きっとまた、違う視点を提示してくれたり、考察を深めたりするようなお返事があると期待して。

 

蝉は腹を空に向けて落下し、つくつくぼうしが鳴き出したけど、外は暑いし、中は上手いことやらないと冷えるし、夏ってこんなに難しい季節だったけ。くれぐれもご自愛ください。

感想文(2022年7月)

どうも、ジュン・チャンです。

7月は選挙や国試、引越しで思いの外慌ただしく、お手紙書けませんでした。

回復したら長々溜まってた色々をタカシナに送ると思います。楽しみに待っていて下さい。

 


【2022年7月】

(映画)

① 高見剛監督『風の記憶 湯布院・日生出台1996〜2022』

(本)

①藤本徹『青葱を切る』

山田宗樹『百年法 上・下』

 


【所感】

(映画)

①高見剛監督『風の記憶 湯布院・日生出台1996〜2022』

吉森睦子さんに誘われて、山を越えて行ってきた。当日17時に完成したらしい。カッコいい。

1995年の沖縄駐留米軍による少女暴行事件を機に、本土数箇所に訓練場が分散された。そのうちの一つが大分県の日生出台という場所だった。

自分は大学での恩師の一人が、この暴行事件を機に沖縄近現代史の研究を始めたこと等から、この手の話題には関心があり、人よりは知っていると思っていた。

しかし、大分県に軍事演習場があると知ったのは、大分に来てからだった。

映像では、反対運動がもともと町政と市民が一致団結して始まり、国の圧力から市民の活動となっていた流れが示されていた。こうした運動の流れ、米軍の演習や外出がルールを無視したものになっている現状について、丁寧に編まれていた。

印象に残ったのは、冒頭で衛藤さんが牛を放牧する場面、そして武器が強力化され激しさを増す軍事演習の場面だった。生活するスレスレの場で、人を殺すための兵器が演習の名の下に使われている現状。軍事費増強を掲げる政党に投票した人は、こうした現実を目の当たりにしたら何を思うのだろうか。

沖縄における米軍属による性暴力事件については、2016年にも、女性が米兵に暴行され、遺体を遺棄される事件もあった。他人事では全くない。

沖縄へ押しつけている基地負担、地方に強制的に押しつけられる軍事演習場。国による地方の軽視を感じざるをえない。

このような状況下で、2022年の参院選において「沖縄の米軍基地を東京に引き取る党」が東京選挙区から立候補したのは、考えるきっかけとして大きかったのではないかと思う。自分がそう思いたいだけかもしれないが。

上映後のトークで、衛藤さんが最後に言っていた「自分達の足元で起こっていることを無視しない」におおいに頷いた。身近な生活の場で生じる理不尽を、誰かが我慢を強いられるのを、僕は無視したままで生きたくない。

 


(本)

①藤本徹『青葱を切る』

カモシカ書店で一目惚れ。チマチマ読んできたが、国試が終わった夜に一気読み。

作品毎に変わる視点が面白い。詩を読んで場面が思い浮かぶって、とても楽しいこと。

hitofukiで夏にまつわる詩をいくつか声に出してみた。益々味わい深かった。

 


山田宗樹『百年法 上・下』

久々の小説。著者は『嫌われ松子の一生』原作者だった。正剛文庫よりずっと拝借していて、試験後にようやっと落ち着いて読み出す。

読み出したら止まらなくなり、下巻は「寝る前にちょっと読むか」と読み出したら読み終えてしまい、深夜1時を回っていた。同じ姿勢で微動だにせず4時間。ここまで読ませる本は原田マハ作品以来だ。

ジャンルとしてはSF作品らしいが、ないようでありそうな未来を描く。不老化処置を受けた人間は、処置から100年経過すると基本的人権を剥奪され、死を迎えることとなる。政治家、市民、警察、拒否者(100年の経過措置を拒否する者)など、あらゆる視点の登場人物が現れ、絡み合いながら物語は進む。その分、内容がとても立体的で現実味を帯びていた。

以下、印象に残った一文。スケールの大きな本作中で、何気ない場面で地味に真意を散りばめる著者の手腕よ。

[ しかし加藤には、なんとなく納得できた。人生を左右するほどの大きな決断が、常に衝撃的な事件が引き金になって下されるとは限らない。日々の何気ない出来事や出会った言葉が、いつの間にか、人の進むべき道を方向付けていく。後から振り返っても、どれか一つを選んで原因だと特定することは難しい。生きるとは、そういうものではないか。(下巻P59)]

完全無欠な社会も、政治体制も存在はしない。そのことを理解した上で、自分の感覚を研ぎ澄まし、かつ考え抜くこと。『彩雲国物語』という小説で、初の女性官吏という設定の主人公が言っていた台詞を思い出す。曰く「次善の策は考えない」である。

感想文(2022年6月)

どうも、ジュン・チャンです。

意図してないけど、選挙期間らしいチョイスもありました。

 

【2022年6月】

(映画)

① 『犬王』

② 『教育と愛国』

(本)

① 石崎 洋司『「オードリー・タン」の誕生 だれも取り残さない台湾の天才IT相』

② マーシャル・B・ローゼンバーグ 著/今井麻希子、鈴木重子、安納献 訳

『「わかりあえない」を越える――目の前のつながりから、共に未来をつくるコミュニケーション・NVC

 

 

 

(映画)

①『犬王』

声優のラインナップと予告編、そしてある方の感想を拝読し観たかった作品。

大分ではパークプレイスでしか上映がなく、どうしようかと思っていたが、前日にファーストデーであることに気づき、自分の予定も空いていることに気づき、一念発起して電車とバスで行ってきた。都会では当たり前だった公共交通機関での1時間〜1時間半が、車社会だと途方もない旅路に感じられる不思議。

旅路の果てに臨んだスクリーンは、一切の無駄のない作品を映し出した。筋の通ったアニメーションミュージカル。無駄なく、しかししっかり回収するストーリー。昔、北方謙三『破軍の星』や飴あられ作品で、南北朝時代にハマり調べまくったのを思い出した。短い時代の中に、のちの乱世へ繋がる日本の政治や文化の根っこがあった。そんなことにまで思い馳せてしまうくらい、ぎゅっとした構成だった。

そこに肉付けされる、権力闘争に敗れ歴史の中で葬り去られた側への弔い、芸の持つエネルギー。冒頭、厳島神社での琵琶法師の演奏から始まるように、芸は捧げるもの、鎮めるものであり、草の根で脈々と続き、時に人を熱狂させ、奮い立たせるということが貫かれた作品だった。歌い踊る身体の、伸び伸びとしなやかな美しさを表現したアニメーション、アヴちゃんと森山未來の声の力強さ・妖艶さ、震えた。マニアックな視点だが、映画の中での舞台裏方の様子、番外編で観たい。絶対楽しい!

 


②『教育と愛国』

林博史先生の『沖縄戦 強制された「集団自決」 (歴史文化ライブラリー)』を基にした授業で教科書問題について知った身としては、本当にジワジワくる内容だった。政治家達の発言、態度を聞きながら悔しくなった。気が遠くなるほどの時間をかけて丹念に研究されてきた学知への侮辱だな、と自分は思った。選挙の時期に言うのも何だが、公人としての発言・振る舞いに無責任な政治家の姿を見ると、政治家はTwitter禁止にした方が良いのではないかとさへ思ってしまった。

社会科の教員がインタビューの中で話していた「従軍慰安婦が時事問題として続いている」という言葉が印象的だった。

本作を、虐げられ、出る杭は打たれる社会のなかで、「女性」の監督が発信してくれたことが一つの希望だ。

個人的には、現行の政治や組織における無責任体制は、戦争責任を果たしていないところからも端を発すると考えている。では、戦争責任とは何か。過ちを認めることと自分は考える。なぜその過ちが起こったのかを考え、二度と同じ被害が起こらないように全力を尽くすこと。国が、国民が果たすべき責任ではないだろうか。

 

 

(本)

① 石崎 洋司『「オードリー・タン」の誕生 だれも取り残さない台湾の天才IT相』

本書は大原扁理さんのブログで知った。前からオードリー・タン氏についての書籍をどれか読みたいなあと思っていて、偶然図書館に本書があったので読んでみた。

最近、問題集や法令、ガイドラインに目を通しているので、児童向けに書かれた本書のフォントが目にやさしく、読みやすかった。

本書には、タイトルにもあるように、誰も取りこぼさない社会を作るためのヒントが詰まっていた。「おおまかな合意」という概念や、政策提言のサイトから参政権を持たない16歳の意見が政治に反映されたこと等が印象深かった。以下、「おおまかな合意」について本文より引用。

[しかし、権力者がいないのは当然として、民主主義を支える方法でもある投票や多数決を拒否するのはなぜでしょうか。そして、「おおまかな合意」というのはどういう意味なのでしょうか?

 これについて、オードリーはこういっています。

「投票をすれば、物事ははっきりと決まります。けれども、少数派は必ず敗者になってしまいます」

 除外された意見の異なる人々は、自分を殺して、ひっそりと息をひそめていなければなりません。

「一方、『おおまかな合意』とは、『満足できないにしても、みんなが受け入れられる合意』ということ。そこでは、思い通りになったという勝者もいないかわり、何ひとつ受け入れてもらえなかったという敗者もいません」

 こんな感じでいこうよ-それぐらいの合意で進んでいけば、より多くの人々が共存できて、より多様性のある文化を実現することができます。(P135〜P136)]

オードリー氏は持病を抱えた幼少期を過ごし、児童期には体罰の残る父権的な学校教育で苦しんだ。仮初の強さに迎合しなかった(できなかった)からこそ、生まれた発想だ。

議論のプロセスが見えず、政策決定の根拠が示されない、日本の現状とえらい違いだ。日本の場合、情報公開以前に、筋の通った政治が執り行われていないことが問題であるように感じる。

 


② マーシャル・B・ローゼンバーグ 著/今井麻希子、鈴木重子、安納献 訳

『「わかりあえない」を越える――目の前のつながりから、共に未来をつくるコミュニケーション・NVC

ハチドリ舎を友人が教えてくれた時に知った「NVC(非暴力コミュニケーション)」。この本は絶対にハチドリ舎で買おうと決めていた。本はどこで巡り会い、手に入れるかも大事だ。

しっかり読もうと思って、じっくり読んでいたら2ヶ月かかった。本書はNVCの理論について、エクササイズ(実践)を交えながら進む。

引用すると以下のようになる。

[本章をまとめると「自分の内面で何が息づいているか」を表現するためには、次の3つの要素が必要なのです。

 ・自分が観察していること

 ・自分がいだいている感情

 ・その感情とつながっているニーズ 

  (P69〜P70)]

本文では「自分の内面で何が息づいているか」という言葉もよく現れた。

自分や相手のことを決めつけず、まずは自分の中にあるニーズ(欲求と言ってもいいのかもしれない)を掴むことから始まる、と自分は認識した。

この数年起こった様々な出来事もあって、エクササイズを通して確信したが、「自分は大事にされたい、尊重されたい」という欲求が根っこにあるのだと理解した。誰もが持ちうる当然の欲求かもしれないが、自分はこの根っこに気づくのに、随分と時間が掛かった。慌てるよりも、腑に落ちて力が抜けた感覚の方が強い。

著者マーシャルがNVCを学び始めた頃の、お子とのやり取りに勇気づけられる。誰でも最初から完璧にできた訳ではないのだ。日々修行。実践的にもっと学びたいと思った。

最後にマーシャルが読者に投げかけているのが、

[・根本的に新しい経済システム

 ・現在この地球に多大な苦しみを与えているものとは異なる、新しい司法制度(P247)]であったのも印象的だった。資本主義の限界や、少年法における特定少年(厳罰化)等、日本にも当てはまる。個人的なことは政治的なこと、とよく言われるが、めげずにまずは自分から変わりたい。

第十四便 返信

大分は雨が降っています。今日は穏やかな雨です。

久しぶり、ジュン・チャンです。

こちらは退職後の手続きが完結し、ホッとしたところ。


この何年も言われていることだけど、ほんと気候までもが狂っていて、人類による環境破壊の因果が確実に巡ってきているのを感じる。そんな狂った気候で、体調を崩す層は確実に増えている。気象病の概念が認知されて、気候の体調への影響を自覚する人が増えているのもありそう。

仕事を辞めてから、国試に向けての勉強と並行して、旅に出たり、展示や上映会といった企画をしたりしていて、案外動いている。でも、働いていた時より体調は良い。肩から力が抜けたのがわかる。ずっと気を張っていたんだと思う。自分のペースで生活できているから、当然と言えば当然なんだけど。


自分より歳上の世代と話すと、基本は「若いうち、体力があるうちに」と言われ、時には年齢を羨ましがられる。正直言って僕は納得行かない。もちろん加齢に伴って、徐々に身体機能は変化し、それは通常衰えていくと認識されるから、間違ってはいない。

しかし、タカシナも綴っていたように、全ての人間が一概に体力があって元気なわけではない。ましてやホルモンバランスに左右されやすい身体に生まれた身としては、無理の積み重ねが身体にいかに影響するか、嫌というほど思い知らされてきた。

この辺も個人差があるから、左右されにくい人もいるだろうし。年齢や性別に関わらず、自分の身体に合った活動、過ごし方、休息の取り方を探っていくしかないじゃんね。

教育も社会も、休むことを許さない。本当に教えるべきは、休みながら細く長くどう生活していくかだし、国や組織がそのための環境を提供することが必要だろう。今やそんな余力は組織にないようにも感じる。

(2022年6月14日追記:いつも自分を見守ってくれる身近な人達については、自分の背中を押すために言ってくれているんだろうなとは思う。)


タカシナが書いていた[「筋肉があってちょっとやそっとじゃへこたれなくてバリバリ働いてお金を稼いで怖いものなしの健康な」人間]と言うのを、僕は信用できない。と言うか、ほんとに少数だと思う。

弱さに目を瞑る者に何がなし得るか、と僕は批判的に考える。今、この国で国政を担う者の姿とも重なる。

人の弱さを認めた上で成り立つ社会の方が、よっぽど健全な気がする。社会保障が他国より低く、生活保護費の引き下げまで起こるようなこの国が良い例だ。

身近な例としても、妊娠中の体調不良時に仕事を強要され、上司から休暇の了解を得られない同僚や、時短勤務と家事育児の両立に疲弊していく同僚が思い浮かぶ。かと言って、男性や独身者とて、過重な業務を担わされる等の理不尽な状況に晒されることも少なくない。組織を離れて、国が提示する仮初の「強さ」に準じたくない、という想いが僕は強くなっている。


今はまだ休養期間と定めたのを良いことに、色々考える期間にしていこうと思う。その一環で、次はこのことについて話し合っていきたい。

梅雨に入るしぼちぼちいこう。僕は除湿機の効果を実感している。タカシナも除湿機と豆ご飯の導入を試行してみて。僕は身体がスッキリして、怠さが軽減されたよ。この手のことって、まさにオーダーメイド人体実験だね。焦らずぼちぼち。

感想文(2022年5月)

爽やかな季節となりました。九州よりジュン・チャンです。お手紙の返事は週末に書きます。

 

【2022年5月】

(映画)

① 『屋根の上に吹く風は』

② 『ホリック xxxHOLiC

③ 『ちむぐりさ 菜の花の沖縄日記』

④ 『ふたつの部屋、ふたりの暮らし』

 


(本)

遠藤周作『沈黙(新潮文庫)』

②ローズマリ・サトクリフ作/猪熊葉子 訳『太陽の戦士』

③ ひすいこたろう『3秒でハッピーになる 超名言100 (3秒でハッピーになる名言セラピーシリーズ)』

 


【所感】

(映画)

① 『屋根の上に吹く風は』

広島のハチドリ舎を訪れた際に知り、急遽観に行った。鳥取県の山あいにある新田サドベリースクールの日常を捉えた作品。

冒頭、子ども達が屋根に登る場面から感極まった。画面を通して子ども達を観て、この場所と出会えて良かったなあと思った。

作中、洋ちゃんが「嫌なら嫌って自分の気持ちを言えた方が良い」と発言する場面があった。受けてきた教育や職場環境を振り返ると、自分の気持ちに蓋をして、嫌と言えなかった場面が多々あった。これって人権教育の根っこじゃんって後で思った。

上映前に参加してしまったトークショーも盛り沢山だった。「短期的な評価ではなく何を残せるか。」「自分で感じて考えて決めて行く。」とスタッフのどなたかが仰っていたようなのだが、自分の字が汚くてわからなかった。

教育基本法改正や教科書検定により、政治がジワジワと教育に介入し、戦前のような思考停止や、発言しづらい雰囲気が戻ってきている公教育とは対照的な取組みだ。

いずれにせよ、教育とはどんな未来を子どもに託したいかという、大人のエゴであり、思惑であり、願いであるようだ。子どもが主体的に考え、決定していくサドベリースクールが、希望に思えてならない。

https://www.yane-ue.com

 


② 『ホリック xxxHOLiC

原作と設定は同じだけど話が違っていて、観終わった後に批判が多いことを知った。とは言え自分、原作の記憶が朧げ、というかツバサと混じっている。個人的には、映像(舞台装置、照明、小道具が贅沢)も役者も美しいし、主題歌セカオワだし、美しかったから良い。

 


③ 『ちむぐりさ 菜の花の沖縄日記』

石川県から沖縄へ移住し、高校3年間を過ごした菜の花さんが見た沖縄を取り巻くドキュメンタリー。老成していると言えるくらい、とても落ち着いていて、17〜18歳とは思えなかった。声や話し方も静かで真摯で、聞きやすかった。

本作は沖縄テレビの記念作品とのことで、菜の花さん自身の体験、取材から考えたこと、行動したことの合間に、沖縄でこれまで起こってきた米軍軍属によるレイプ事件や飛行機墜落・部品落下、政府の対応についても組み込まれ、戦後沖縄が晒されてきた状況について視聴者が時系列で理解できるような構成になっていた。在任中に亡くなられた翁長県知事の映像も何度か流れたが、癌に冒されながら演説をする姿が流れた時、訃報を聞いた時の気持ちが蘇った。

大学卒業時、恩師の勧めで佐喜眞美術館を訪れた時のことを思い出した。米軍の普天間基地の真横に建ち、屋上からは飛行場内を見下ろすことができる。学校も住宅も基地の真横にあるが、轟音、低空飛行でヘリが飛んでいる樣が衝撃だった。青森にいた時「三沢基地から飛んできた機体がうるさい」と思っていたが、そんなの比にならないくらいだった。「戦争は終わってない」と直感的に思った佐喜眞美術館での実感が、今も自分の中で何かの原動力になっている。

映画のなかで、米軍のヘリから部品落下が続いたことを受けて、飛行制限の訴えを国にしていた女性の言葉が全てだ。「命の話をしている」人の生活がある。

やや飛躍するかもしれないし、個人的には男女比率なんて話をしているのが本来時代遅れだと思うのだが(男女で分けられたら自分の居場所がないため)、意思決定層の半分を女性にしないと、現状は変わらないようにも感じる。もちろん、男性優位を内包したり、事実を捻じ曲げ都合の良い神話を語るような輩ではなく。

http://chimugurisa.net/#intro

 


④ 『ふたつの部屋、ふたりの暮らし』

同じアパートの隣室に住む高齢のレズビアンの話、という説明書きで観に行った。

娘と息子がいるマドは、子ども達にカムアウトができないまま脳卒中で倒れ、会話や歩行に後遺症が残る。恋人のニナは、なんとかマドと一緒にいようと、あの手この手を尽くすが、二人の関係を周囲が知らない中で、事は上手く進まない。二人の関係を知って戸惑うマドの娘が、マドを施設に入所させるが、マドがニナに電話して場所が発覚し、ニナがマドをアパートに連れ帰るが…終わりはモヤっと中途半端。

本作を通して思ったのは、「意識がはっきりしているうちに、やるべきことはやっておかないとアカン」ということだった。合理的に考えると、子どもらからの拒否・反発に遭ったとしても、事前にニナとの関係についてカムアウトしておいた方が、何かあった時の体制づくりはしやすいはずだ。亡父からの虐待(と娘が表現している場面が作中あったため利用)を受けながら、離婚することなく看取り、子との関係も維持したマド。マドの臆病さ、弱さがなかったら、全く違う話になっていただろう。

かと言って、マドの臆病さを責められる人なんているのだろうか。恋人や家族といった、大切なものがあるなかで身動きが取れなかったマド自身の苦悩を想う。

劇中歌の効果ヤバしヤバし。最初と最後に流れる音楽同じだったけど、意味合いがまた違っていて、気持ちがシュンとした。

 


(本)

遠藤周作『沈黙(新潮文庫)』

人間はどこまでも惨いことができる。同じ人間を虫けらのように扱い、殺すことだってできる。

本作で描かれる江戸時代の百姓によるキリスト教の信仰とは、極楽浄土の信仰に近いようだった。現世利益のような。百姓の中には、信仰のためというよりも、現世での凄惨な人生を憂いて、拷問の末亡くなった者もいたのではないだろうか。

神とは何か、信仰とは何か。生きるとは。徹底して突き詰めていた。最後に司祭が至った境地について、圧倒されすぎて掴みきれなかった。

 


②ローズマリ・サトクリフ作/猪熊葉子 訳『太陽の戦士』

本作は、あの上橋菜穂子先生(守り人シリーズや『鹿の王』の著者であり、人類学者)が影響を受けた作品の一つらしい。上橋先生のエッセイで知り、ずっと読みたかったのを思い出し、とりあえず一冊読んでみた。

いわゆる「児童書」に分類される本の共通点として、情景の豊かさが挙げられる。特に、歴史やファンタジーとタグがつけられる作品は、その傾向が強いように思う。一行目を読み出した瞬間に、身体ごとマルっと引き込まれる感覚がある。本作を読み出した瞬間がまさにそれだった。風が吹き抜けた。

本作では、島の自然が作り出した景色の描写から物語が始まる。そこから間もなく、主人公ドレム少年が置かれる過酷な状況を、読者は知ることとなる。そこから、ドレムの闘いが幕を開ける。

風景や生活の描写だけではなく、狩りや戦闘の場面もリアルで、上橋作品に通じるものを感じた。主要な武器が槍であるところも、バルサを彷彿とさせた。圧巻の戦闘場面、主人公ドレムの苦悩と葛藤、哀しみを描いたのち、ラストが「こうきたか!」という感じだった。俗に言う「甘い雰囲気」なんか微塵もなく、しかしそれが良かった。同じ道を通過した者同士の、自然な結末。僕は背中合わせで一緒に闘う仲間の方が憧れるけど。守り人シリーズバルサとタンダの関係性も思い出した。

 


③ ひすいこたろう『3秒でハッピーになる 超名言100 (3秒でハッピーになる名言セラピーシリーズ)』

前職でご一緒した方からいただいた。就寝前にちょっとずつ読んだ。眠りにつくのに良い言葉のラインナップだった。気軽に見開きでパッと読めるのが良い。