次に呑む日まで

呑める日が来るまでの往復書簡

観察3


気圧の乱高下でやられていないか心配です。

平ちゃんです。

地震なんかもあったし、とにかく平穏であることの難しさばかり感じています。花粉やばいから目も痒いしさ…花粉症が目にくるたちなのですが、会社に行こうとするたびに茫々と涙が流れてきて、理由はスギ花粉とはいえなんだか毎朝悲劇的な気分になります。


ジュン・チャンの第四便をみて、私には実感としてわからないことだらけで。文字の上を滑ることはできるけれど…

そんなんじゃわからないよ!情報量が足りない、語り合おうよ!!

と悶えていたのでした。

あ、これが2人の言ってる「呑める日」「呑む」ってことか、もしかして。


2人、めちゃ長電話するじゃん。と、思っていたのだけど。

この前の土曜日にお昼頃地元の友達から電話きて、主にその子の好きぴ(…好きぴ)の話を夕方まで聞いたので。

タカシナとジュン・チャンの朝までになりそうな時間帯というのがみっちり感あるだけで、確かに私もそれくらいは人と話しているな、と気がついた。

車が家のガレージにあるかどうか見に行くんだって。それで、あぁ、お家にいるんだなぁと思って会わずに帰るんだそうだ。なんなら彼女は車種を好きぴ専用の代名詞として使っている(クラウンが飲みに誘ってきてさぁ、珍しくない?…みたいな)。車のことはわからない私はGoogle画像検索を味方につけつつ、全然知らんその人のことが具体的に、ほんの少しだけ実像を持って立ち上がってくる、ような気がする。


細部が知りたいなぁ。しっかりした書きっぷりに表れない細部が。私は全体を掴むのが苦手で、そういう意味では全体の設計図を描けるであろう白米の企画がきっと面白いだろうなってまた思った。くわだて。政治活動。など。


あー…


人間を好く、とか、恋愛感情、みたいなところに立脚せずに話すのがとても難しい。

これはとても悪い癖な気がする。もっと自由になりたい。


細部といえば、

タカシナから借りた『なぜふつうに食べられないのか』


読んでいる。読んでいる、なのは読み終わってないからなんだけど、『ダイエット幻想』


の方は新書なのもあってさっと読み終われたんだけどなぁ…この読めなさがなんの重さかというと、具体例の、細かさの重さだなと思う。一人一人の、最低限にせよ、体験の語りの重さ。好きで、好きだけど飲み下せない、申し訳なさにも似た気持ちがある。拒食や過食の原因として語られるものごと。親戚に太ったと言われたり、教師にからかわれたり、一つ一つの想像出来る事柄たちが、わたしには想像できない状態に繋がっていく…想像できない、が乱暴すぎるならば、正確に観測できない、というべきか、


あれ、細部を聞いたってやっぱりわからないのじゃないか。

わからなさ、引き受けて行った方がいいんだろうか、これ。

引き受けられるのかな。




観察の感想をとりあえずここまでにして、ここからは近況、追伸。


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最近近くの公園にばかり行っている。オープンエアだし。コロナのせいか公園すらも管理の感じが曖昧になってきてるのが見えて面白い。それ公園なの?ごみじゃん、みたいな。見応えがすごい。

それにしても毎週のように執拗に公園に行っている。海の近くで青春を過ごしたからだろうか?いつもそこにある広がりが安心させてくるのだろうか。いや、中高生の自分は青春というには幼すぎたような気もする。

どちらかというと私の青春は戸山公園とかにあったかもしれない、大学の隣…公園にばかりご縁のある人生だ…。

今のわたしにとっては、何だろうなぁ。こどもづれ、犬づれ、私にとってわかりやすい幸せの形をみて、闘志を燃やしているのかもしれない。



二人は最近何をみているのでしょうか。