次に呑む日まで

呑める日が来るまでの往復書簡

第四便

ジュン・チャンです。

身の回りが一旦落ち着いた。これについては、タカシナと4時間電話で話した通り。朝まで生テレビになりそうで、ビビったね。話が尽きないにも程がある。いつも付き合ってくれてありがとう。

ずっと関わってきた案件に片がつき、自分でも驚くほど心身ともにスッキリした。渦中にある時は終わりなんかわかんないけど、明確に一つ線引きされた感覚が、今の僕にはある。振り返ると長かった。大河ドラマかよ。長い分、また色々な示唆を得たので、貪欲に考察していきたい。

 

さて、今回は僕の投げ掛けから始まるわけだが、森さんの女性蔑視発言や、宮城・福島での震度6の地震など、2月前半はトピックが多過ぎて、考え込んでしまった。あんまり考え込んでもどうしようもないので、個人的な実感から始めていきたい。

この1年で起こった身の回りの出来事を振り返った時に、相手を尊重しない場面に立ち会うことが多かった。相手を尊重するって、なんだか堅い表現だ。僕なりに柔らかく言おうとするならば、相手の価値観や考え方を踏まえて接することだと思う。

そのためには、とことん話し合うこと、無視せずモヤモヤと向き合い考えること、想い巡らすこと、が必要だと考える。

 

僕は性自認が男でも女でもない、と思っている。あえて用語を当てはめるならXジェンダーの類か。性的指向アセクシャルだと思うが、多分これは流動性があるだろう。

ただ、見た目がどうしても女性寄りなので、社会生活を送るなかでは女性として認識され、扱われることが多い。女性として見られることで、恩恵を受けている部分もあるが、女性として扱われることに違和感は拭えない。20〜30代の女性というだけで、男性といると関係性を問われ、結婚について囁かれるのも納得いかない。相手も含めて、それぞれひとりの人なのに。

特に、男性から女性として見られる場合はとても不愉快だ。ひとりの人としてみられている気がしない。自分に向けられるものだけではなく、親しい人に向けられるものでさえ、そう感じる。この違和感、気持ち悪さの根源は、いったいなんなんだろうね。「物じゃねえんだよ!」といつも叫んでいる。

ちなみに、地方都市に住むことになりびっくりしたのだが、自分の性的指向などを見知らぬ人に開示した時に(別に普段からオープンにしているけど)、「気持ち悪い!」と反射的に言ったオッちゃんや、「何それ?笑」と言ったオネーさんがいた。「あ、こんな風に言われるんだ」と驚くとともに、今までは理解のある環境に身を置くことができていたのだなあとしみじみした。まあ、オッちゃんもオネーさんも未知の者が現れてびっくりしたんだろうなと思う。

一方で、まともにショックを受けたこともある。僕が勝手に「この人は自分を理解してくれている」と信頼していた相手から、僕の価値観や考え方を踏み躙られるような発言をされたことがあった。タカシナならお察しかと思うが、僕はどうやら、どんな相手にも概ね同じトーンで接するため、日頃の過激と捉えられやすい発言も要因だったとは思う。とは言え、その時は呆気に取られて何も言えず、放心状態になった。その日はそのまま過ごしたが、時間が経ってからダメージが来て、とてもしんどかった。自分でも予想外にショックだった。ちょっと今はまだ向き合うのがこわい。自分が傷つくのをびびっている。

男女平等は始まりに過ぎない。目の前の人を、一人の人としていかに認識できるかが、僕らの住む社会に不足しているんじゃないか。

 

第三便や平ちゃんの観察にもあったけれど、体調の波や、脳の特徴とのマッチングミスで、うまいこと働けない人が一定数いるよね。僕はある程度知識があって、その背景を推察できるから、本人の努力不足では決してないことや、当の本人達は就労意欲が高いことも知っている。

ある人が、前述した状況の人を指して「なんで働けないんだろう」と呟いたのを聞いたことがある。僕の捉え方ももちろんあるだろうけど、疑問符というよりは蔑視を含んだトーンに聞こえてしまい、咄嗟に言い返すことができなかった。ずっとシコリのように引っかかっている。自分がきちんと話せたら、そこから対話に繋がった可能性もあるのになあ。

第三便のやりとり、平ちゃんの観察を読み返して気づいたのだけど、大人になって明らかになる不調の原因があまりに多いよね。こういうのって、我々は自身の当事者性も含めて理解している方だけれど、世の中には知らない人も、わからない人もいるだろう。

相手の主張や抱えるものを、完全に理解することはできない。でも、わからないことを前提に、わかろうと努力することは誰にだってできるはず。腹を割って話すこと、そしてそれ以上に話を聴くこと、普段の行動や言動に繋げること。相対する全人類にこれをやれとは言わないが、僕の感覚では、あまりにこの対話のプロセスを意識しない、下駄を履かされた人が多いように感じる。自分が同じ立場になる可能性を、想像し得ないのだろうか。

教育制度に上記の対話を求めたところで、変革させるには長い時間がかかるだろう。まずは大人達が、どうやったら無理解から一歩先へ進めるのだろう。

 

もう深く関わることはない人もいるけれど、僕はあらゆる友人達の前途に、幸多からんことを願いたい。自分の価値観と向き合うことは、痛みを伴う。それでも、他者を傷つけた結果、意固地にひとりになるのではなく。相手と腹を割って対話することを、疎かにしないでほしい。じゃないと、結局は人が離れていく。味気ない、虚しい人生だと僕は思う。

もしまた機会があれば、そして僕の受けたダメージが落ち着いたならば、臆せず爆弾を投げ込み、あらゆる対話を重ねていきたいと思う一方で、ほとほと自分のお人好しにも呆れ返っている。今後のスローガンは「自分を大事にしない奴まで大事にしない!」に尽きる。

でも、絶対似たことでモヤってる人はいる気がする。モヤモヤを大事にする社会問題系WSとかやっちまおうかなあ。爆竹を投げまくり価値観を揺さぶる。何の資格もないのに、無責任な試みだろうか。