次に呑む日まで

呑める日が来るまでの往復書簡

第十一便 返信

 

第十便を記念したラジオからあっという間に1ヶ月が経ち、季節も流石に移ろったところ。

すっかり秋にやられて、毎日眠いジュン・チャンです。あと、肌がカサカサしてきた。ベビーワセリン塗りたくってる。タカシナは乾燥大丈夫?

あ、まだ十便記念ラジオはアーカイブ視聴できます。BGM代わりにどうぞ。

 

先日海辺からタカシナに電話した通り、公の仕事の方でちょっとあり、気持ちを落ち着けるのに1週間、冷静に情報収集して選択肢を考えるのに、さらに1週間を要した。今は少し余裕が出てきた。そんなこんなで返信が遅くなってしまったし、あまり深い文章は今まとめられないしで申し訳ない。

ちなみに、この10月の出来事を、兄貴分でもある(石榴の花が咲いてる。)主宰の中野さんに話したら、「なに今年も厄年なの?」と言われた。毎年10月11月ってダメなんだよねえ。秋は好きなんだけど。自分で思う以上に減速しないとダメな時期なのだろうね。コロナが落ち着いてイベントや人の出も増えているから、余計に疲れる。

さて、タカシナは第十一便で「分かり合う/分かり合えない」をラジオの話題から取り上げてくれた訳だが、そのなかで僕が強く惹かれたのは以下の部分だった。

「分かり合う/分かり合えない」の話が私にとって根深いのは、私自身が「完璧な理解など存在しない」「共感や自分の立場への引き寄せによる理解にも限界がある」とよくよく分かっていて、それでも、自分にとって大切な話であればあるほどそれを相手にできるだけ完璧に分かってほしい、と思ってしまう、そのどうしようもなさだと思う

タカシナのトーンは自分を責めるような、律するような感じなのかなあと思った。実はこの文章も、視座の入れ替えが前半と後半で生じている。ただ、「〜と思ってしまうどうしようもなさ」この表現が全てを表しているようにも思う。何を以て「分かった」「理解した」なんて基準も正解もない。分かったフリをして共感ぶったりしないようにしかできないのかもしれない。

何かの言葉や分類で、個人の属性や状態を括った時に、その個別性が無視されやすくなる、という指摘があったと思う。例えば精神疾患発達障害、性的マイノリティ等のラベリングが挙げられるだろう。タカシナは第十一便で、自身がマジョリティの立場に位置することにも言及していたね。

ちなみに僕は最近、このマジョリティとかマイノリティとかいうのにもしっくりこない感覚を抱いている。いわゆるマイノリティに分類される中でも、さらにその中で対立や力関係が働き、マイノリティの中にもさらに細分化されてマイノリティがいるような感じがするからだ。

また、僕自身が社会的にはマジョリティでありながら、性自認性的指向についてはマイノリティに位置する、複数の立場(この言葉が適切か悩ましいが)を持つからだろうけど。

かと言って、自分がどの立場の代表とも思わない。僕はただ、僕なんである。同じように、タカシナもタカシナである。個人のぼやっとした生きづらさの話を、もっとしやすい社会だといいのになあ。

僕らは基本、自分の経験や価値観で物事を見聞きし、判断する。だからこそ、学問や他者との対話により、補正をしていくんじゃないかと、僕は考えた。

 

タカシナは1ヶ月経って、どう考えたのかなあ。もしよかったら同じテーマで返信ちょうだいな。

頭ポヤポヤな文章でごめんね。なんか軽いけど、今はちょっとこんくらいの出力が限界みたい。

 

晴れた空に、橙の柿が綺麗だよ。八百屋で柿とあんぽ柿の両方を買っちゃった。最近は蜜柑も出回ってきた。ゆっくりのんびり、秋を過ごしたい。