次に呑む日まで

呑める日が来るまでの往復書簡

第十一便

タカシナです。
今日のお昼ごろから、この往復書簡が十回目を迎えたことを記念して、ふたりで喋る配信をしました。

配信は上のURLからアーカイブとしてお聞きいただけます。ジュン・チャン、提案から何からありがとう。楽しい経験でした。
途中私の声が途切れたりしてお聞き苦しいところもありますが、よろしければ。

余談ですが、最近ようやくラジオを流し聞きしながら何かをする、ということができるようになってきました。考え事や読書のときに頭の中に言葉が声になって響くタイプの人間なので勉強や読書にはBGMを付けられないんですが、逆に言うと考え事をしない作業のお供なら音声情報が入ってきても平気なんですね。自分はラジオというものが苦手な人間だと残念に思ってきたので、付き合い方が分かってきて嬉しいです。生きていると変化ってあるものですね。余談終わり。

その配信中、「分かり合う/分かり合えない」というテーマから、ジュン・チャンの第九便での「どうやったら自分事として考える人が増えるのか」という問いかけに対して、私は根本的に共感からくる分かり合いを信用していないのかもしれない、というような話をした。
配信終わりにジュン・チャンと観測のひらちゃんからも指摘されたのだが、このことに関して私自身配信のなかではうまく話しきれずに終わっていたと思う。もう少し掘り下げて考えてみたい。

共感からくる分かり合いを私が信頼していないのは、配信でも話したように、共感には限界があると思うからだ。
限界とは例えば、共感できる出来事にだけ心を寄せるのでは、問題解決の手からこぼれ落ちる存在が出てくるだろうということ。共感しづらい物事のなかにも、解決されるべきものは多くあると思う。それから、共感するときに起きてしまう変容。自分の経験や状況からは遠く、簡単には共感が難しい事象に対して、自分のことに引き寄せて理解しようとする手法、それ自体はある程度有効だと思う。実際私もそのようにして物事を理解しようとすることが多くあると自覚している。しかし、そのようにして得られた理解は、理解のための引き寄せの時点で元々の経験それ自体からは変容した別物となっているだろう。ジュン・チャンが指摘したように、完全な客観的理解など存在せず聞き手の主観は必ず入る、であるからその程度の変容は許容すべきだろうか。

第九便の返信の、以下の部分で私は今書いたような話をしようとしている。ただ、ジュン・チャンの企画に対してのコメントという形で書いたこともあって、自分の立ち位置やどの程度まで踏み込んで話していいか、迷いながら描いた覚えがある。そのせいか、後から読み返してみると話し手である自分の視点がぐらついていて主語の分かりづらい、意味の取りづらい文章になってしまっている。そうした反省を踏まえてもう一度このことについて考えてみたい。

ずっと、たまたまそう生まれただけで割合からマイノリティと呼ばれ、権利を得るためには声を上げ立ち上がり社会を動かさなければならない、というのはしんどいし不平等だと思ってきた。自分のことというよりはもっと広い意味で(そもそも私はどうあれ「当事者」でなくマジョリティでは?とも思う、のでこの語り方が正しいのかもあまり自信がない)。本当はそんなことしなくていいはずだしそんなことしなくていい社会にさっさとなればいいのになかなかそうはならない。人一倍頑張らなければ文字通り生きてゆけなくて、その様を見てそうでない人たちは石を投げるか、さもなくば感動の涙を流したりする。それって同じ高さの地平に立った同じ尊厳のある存在への扱いなんだろうか。

それでも、世の中がそういう不平等で溢れているときにただ黙っているだけだと現状を追認していることになる。「あなたには分からない」と言いながらも本当は分かってほしい、それはそう。でも本当に全部分かるのは無理だろうとも思うし全部分かったと言われたらそれはそれでこちらのプライドが多分許さない。同じ経験なんてお互い絶対無理なのに、100%分かるのは無理でしょ、と思う。 だから、相手と7割くらい分かり合えたらそれでいい、というところで止める力、さっき言った胆力みたいなもの、それが必要なのかなあとも思う。これはジュン・チャンの投げてくれた「どうやったら自分事として考える人が増えるのか」の答えにはあまりなってないね。申し訳ない。

第九便 返信 - 次に呑む日まで

これを書いた時の思考の流れについて思い出してみると、色々と見えてくるものがある。
まず初めに「自分のことというよりはもっと広い意味で(そもそも私はどうあれ「当事者」でなくマジョリティでは?とも思う(後略)」と書いているが、これは言葉通りの意味の他にある種の予防線としての意味も持たせている。書き手である自身の立ち位置を当事者でなく客観的第三者だとはっきり言っておきたかったのだ。
その姿勢は、前段終わりの「……それって同じ高さの地平に立った同じ尊厳のある存在への扱いなんだろうか」まではかろうじてではあるが保たれているように思う。
しかし後段の、「『あなたには分からない』と言いながらも本当は分かってほしい、それはそう。でも本当に全部分かるのは無理だろうとも思うし全部分かったと言われたらそれはそれでこちらのプライドが多分許さない。同じ経験なんてお互い絶対無理なのに、100%分かるのは無理でしょ、と思う。(後略)」という部分では、完全に客観的第三者の意見ではなく、自分の気持ちの吐露となっている。前段と後段で、書き手の立ち位置そのものが客観から主観へと変わってしまっているのだ。
なぜこのようなねじれが起こったのか。

私は、自分の意見をマイノリティ当事者のものとして表出するのは違うと思っている。例えばセクシャリティで言えば私はシスヘテロでありその意味でど真ん中マジョリティだ。自身の女性性への折り合いが付いていないとしても、それでもマイノリティとして目に見えて苦しい思いをしたわけではない自分がそれを大きな声で当事者性として言うのは、本来の当事者への簒奪のように思える。それが前段の、客観的な立場からの怒りの表明を行おうという姿勢に繋がっている。
けれど、確かに生きづらさがある。分かってもらえないというような気持ちがある。その気持ちが素直に出てしまったのが後段だ。
「『あなたには分からない』と言いながらも本当は分かってほしい、それはそう。でも本当に全部分かるのは無理だろうとも思うし全部分かったと言われたらそれはそれでこちらのプライドが多分許さない。同じ経験なんてお互い絶対無理なのに、100%分かるのは無理でしょ、と思う。」
これが私の本音であると思う。

「分かり合う/分かり合えない」の話が私にとって根深いのは、私自身が「完璧な理解など存在しない」「共感や自分の立場への引き寄せによる理解にも限界がある」とよくよく分かっていて、それでも、自分にとって大切な話であればあるほどそれを相手にできるだけ完璧に分かってほしい、と思ってしまう、そのどうしようもなさだと思う。
完璧な理解など不可能だと分かっているから、他人と相対するときには相手の全てを分かったりできないということを強く意識する。そのようにしてしか守られない尊厳があると思っている。その延長線上に、「私が当事者を名乗って意見を表すことをしたくない」の気持ちもある。私には理解できない苦しみを、私の例に引き寄せて語り矮小化するようで嫌なのだ。
その一方で、理解されたいという気持ちもある。私は傷ついたり怒ったりしているのかもしれない。何に対してかは分からない。ただ、そうした気持ちをもし誰かに話すなら、気持ちをそのまま分かってほしいと思ってしまう。
これは大いなる我儘で、思い上がりで、依存で、つまりよろしくない欲求だ。以前カウンセリングというものに通ったときも、理解されたと思う瞬間は決して多くは無かった。求めすぎ、期待し過ぎなのだと思う。健全な程度の欲求に留めたいし、自分の中にこんな欲求があること自体直視したくはなかった。けれど今日の配信の中でもそういう話はしたし、結局「分かり合う/分かり合えない」」の話の行きつく先はここなのだと思う。

とはいえまあ、そういう自分とも折り合いをつけてやってはいる。こうして何かを書くことも、人と話すことも、それを通じて他人のもたらしてくれる気付きで私自身が私のことをより理解していく。自分の内側のことなんて覗き込みすぎると気が滅入る、というような意見もあるが、私は自分を苦しめたり怖がらせたりしているものの正体が知りたい。結局のところ私の悩みは私だけのもので、それはもうどうしようもなく、しかし理解されないとしても私の悩みが私のものであることは、救いである。

配信の余韻が残っているうちに書いてしまおうと思ったら、あまり制御の効いていない文章になってしまいました。内省録じゃんみたいな。ごめんよ。
お返事、好きなように書いてください。気長に。
季節の変わり目なのでサバイブ第一に、ご自愛ください。