次に呑む日まで

呑める日が来るまでの往復書簡

第八便

タカシナです。
前回は犬への気持ちを語りっぱなし投げっぱなしの暴投したにもかかわらず、ジュン・チャンがきちんと「姪」というゴールデンボールで返してくれたので素直に嬉しかったです。ありがとう。

姪っ子さん、時々写真を通じて健やかな成長具合を見せてもらっておりますが、マジで健やかな成長を見ているだけで泣ける、周りの大人たちの適切な関わりやお友達との出会いなどの環境に思いを馳せて泣く。子育てといわれるものが、人にもよるだろうけどちゃんとしんどいものだと知りつつある今、意志を持って健やかに育てられた子を見るだけでもうね。それは決して当たり前のことではなく、本人と育てる人の努力によってなされたものだから。おつかれさまです。どんな大人になるんだろうね~~~。

『急に具合が悪くなる』は二度ほど読んでいるはずなんだけど内容がきちんと頭に残っていなくて、ただただ読後の感情だけが強く残っていて、それは私がそこで語られている内容の凄まじさと言ってしまえば死の不条理さ(そもそも不条理なものであるということを忘れることで恐がりな私は何とか日々をやり過ごしているのです)、そうしたものに引っ張られてしまっているからだと思う。だから、受取勘定の話もこのように文脈の中で引用されて改めて、手触りのある理解となった。

かつて、「今現在なんの役にも立っていない自分がどうして生きていていいのか」と真剣に考え続けた日々があった。今から思えば鬱による自責の煮凝りであるが。その時、毎日毎日天井を見ながら考えて考えた末にふと思ったのは、「かつて私が誰かのなにかの助けになったことがあったかもしれない。私が将来誰かの何かの助けになるかもしれない。今は何もできなくても、過去や未来にはなにかあり得るかもしれない。その可能性によってどうにか、今生きていることも許されないだろうか」というものだった。

話があちこちに飛んで申し訳ないが(ある意味我々の普段の会話に近いね)、中島みゆきの『糸』で一番好きな歌詞は、「織りなす布は いつか誰かを 暖めうるかもしれない」という部分だ。「あなた」と「私」が「出逢う」ことで「織りなす布」、言い換えればふたりの関係性とその生み出すものは、しかし、「いつか」「暖めうるかもしれない」というように、慎重に、可能性として歌われる。
自分と相手の関係性が誰かの救いとなる、そういうことはたくさんある。けれどそうならないこともまた、たくさんある。それに、どれだけ当人たちが幸せでいても、誰かを暖める機会に恵まれないこともあるだろう。ではそれらに意味がなかったのかと言えばそうではなく、ただ成り行きがそうであったというだけ。『糸』がテーマに歌っているのはきっと運命の出会いのことなのだけど、だからといって「誰かを絶対に暖める」というようには言い切らず、あくまで判断を未来に投げ、暖めるのか暖めないのか言い切らないところが、他を、つまり運命の出会いではなかったものたちをも排除しない表現となっている。そもそも関係性の渦中にあってそれが運命かどうかなんて分からないわけで、そういう意味でも思慮深い歌詞だな、と。
という、すべて個人の見解ですが。

おそらく自己肯定感だとか自尊感情だとか、そのように呼ばれる部分に何らかのバグがある我々(と非常に乱暴にまとめてしまってごめんね)は、もしかしたら他人の未来というようなもののことならそれなりに願えるのかもしれないね。自分の未来にさしたる望みが無くとも。「受取勘定」の話からそんなことを思った。未来の不確かさ、予想のできなさを、可変性としての希望と捉えて受容する、そのために他者と関わるというのなら、それは綺麗事でなく実感として今の私には響く。

>ところで、次の話。今月、対話企画『揺らぐin別府』というのを始動する。初回のテ ーマは同性婚訴訟、レインボーパレードから、セクシャリティ、家族を取り上げる。もしよかったら、このテーマについて、タカシナの考察や所感など聞いてみたい。気が向いたらよろしく頼む。

今回の書簡は、前回の返信で投げかけられた、これに対する応答をテーマにするつもりでした。相変わらず前置きが長いね。
どんな企画なんだろうと思って、『揺らぐ in 別府』5月のイベントページを見ました。Facebookのリンクうまく張れないので、以下引用させてもらいます。

○企画意図 
社会に出て6年が経ち、安心、安全に話せる場を設けたい、と思うようになりました。安心、安全と言いながら、自分が誰かを傷つけるリスクも、その逆も正直こわい。それでも、生きるためにやらなきゃいけない。
日頃のもやもやをどう捉え直し、考えるか。その上で、どう行動していくかを考える試みです。

なんだか大層な決意表明になっちまいましたが、茶しばいてお話しするだけです。

○概要
毎回テーマを決めて、来られた方々でお話しします。
定員5名、1名より実施。事前予約をお願いします。
結論を出すことをゴールにはしません。
強いて言うならば、身近なこととして考え続けることが目的です。

○5月のテーマ
同性婚訴訟、レインボーパレードにちなみ、セクシャリティ、家族を取り上げます。「基本的な知識が知りたい」「興味はあるけど周りとの会話で話題にしづらい」「なんとなくもやもやしていて」という方、ぜひこの機会を活用ください。

 

私の考察や所感、ということなのですが、率直な感想は、「難しいことしようとしてるな」と「ジュン・チャンらしいな」と「行動に移していてすごい」、のあたりでした。言葉にすると。

難しいことしようとしてるな、というのは、ジュン・チャン自身が分かった上で企画していると思うので改めて言うことでもないけど、その場にいる人を過度に傷つけないかたちでなにかしらの話し合いをすると言うのは、ホスト役の手腕に依る部分が大きいだろうな、と思うからです。というともしかしたらジュン・チャンは、自分はホスト役だったり司会といった、積極的に議論を回す役割をするつもりはないかもしれないのかな、とも思ったりするのですが(これまでのジュン・チャンや白米の感じを見てそう類推しています)、今回の場合はそうもいかなそうかな、と。来る人の背景がバラバラななかで、もし意見の対立が生じた際にどう場を作るのか、というのが難しそうだし、でも同時にそういうのがジュン・チャンの目指すところなのかな。

私は意見の対立を見ているのが割としんどいタイプで、これはもう体質みたいなものかな、例えばイベントや演劇なんかのディスカッションとか質疑応答とかアフタートークも苦手で帰っちゃう方なので、その意味でジュン・チャンの企画にバイアス無しでの感想を言うことができないです。ごめん。対立というか、対話から生まれるものが多くあることは知っているんだけど。時に対立を恐れずに主張すべきことがあるのも分かっているんだけど。あの、言葉と言葉が噛み合わない瞬間の居心地の悪さに耐えられなくて。分かってもらいたい、分かられない、分かりあえないということにナイーブすぎるのかもしれない。

その意味で、これは皮肉でもなんでもなく言うのですが、ジュン・チャンの、ちゃんと発信してちゃんと(もし噛み合わなくても)対話から逃げない姿勢は、私にはぜんぜん無いもので、「ジュン・チャンらしいな」「行動に移していてすごい」も本音です。私にはできないことをできてすごい、って褒め方は、字義通りに読むとそれこそなんだか皮肉めいてしまうんだけど、そうではなくて。ジュン・チャンだからできることだな、と思っています。
実り多き集まりになりますように!

追伸:先日往復書簡LINEで話したピルですが、医者からOKをもらったのでどうも飲めそうです。やったー。生理の重さを呪うとき女に生まれた自分も呪ってしまい非常にドロドロとした怨念に飲み込まれるので、まあ怨念は消えないにせよ少しでも月経に関する諸問題から解放されたいと願うばかりです。