次に呑む日まで

呑める日が来るまでの往復書簡

第六便

お久しぶりです。私が書き始め、ということに決まってからひと月くらい経ってしまった。さぼっていたわけではないのですが、春なので……。今回は何となくとりとめのない話になってしまう気がする。書き方を忘れてしまったような気がする、というのと、日々色々なことに怒ってはいるけれど、いまここでそういう話がしたいわけじゃない、というのと。


どこにいてもそこが自分の本当の居場所とは思えない、というような話が好きだ。寄る辺なさのようなもの。学生時代、オールの飲み会の賑やかな座敷を抜け出してコンビニに行くときの、店から外へ出る階段を降りて深夜の静まりかえった街のアスファルトを踏んだ瞬間の気持ちのような。あるいは、行くあてもなく高速バスの行き先一覧を眺めているときのような。

ずいぶん前、ジュン・チャンと一緒に関わった劇も、そんな話だったように思う。

あと、キリンジの『十四時過ぎのカゲロウ』という曲の「水辺の生き物だから 陸(おか)では生きてゆけない気がしている」という歌い出しがまさにそれで、夏になるとよく口ずさむ。自分のことを水辺の生き物だと思うと、少し気が楽になるときがある。


村田沙耶香『地球星人』を読みながら、そんなことを思っていた。私はどこの誰でありたいんだろう、と。そして『地球星人』があまりに面白くてますます恋愛とは、そして生殖とは…みたいなことを考え込んでしまった。私が小さい頃からぼんやり思い描いていた人生双六には恋愛結婚出産育児ってまっすぐ書いてあって、なんのために、みたいな問いはそこにはなかった。


私は、私の周りの人達がそれぞれに交わし合ったり、私に向けてくれていたりするものを別に疑ってはいないし、幸運なことに、世の中に愛のようなものが確かに存在することも知っている。でもどうも、自分をそこに代入すると考えがバグってその先へゆけない。似たような特徴のセクシュアリティは調べれば出てくるのだけど、名前を付けたら状態から属性に固定してしまうような気もしてあまり深く調べていない。そのうち変わるかもしれないし、このままかもしれないなあ、とも思っている。


たとえば恋愛は、してもしなくてもよいものだとよくよく頭では理解しているのだけど、それでも時々普通に普通の恋愛ができないままでここまできたことに、足下が寒くなるような心地になる。自分には何かが欠けているのかもしれない、と思い、それがバレないようにより陶冶された人格というものを目指していた頃もあった。誰にでも公平に優しく嫌いな人を作らず悪口を言わず、という運用を(実際にできていたかは別として)目指していたら疲れてしまった。生まれつき優しければよかったのだがどうも私は違ったらしい。強くて優しいアンパンマンに生まれたかったが違ったので馬力で解決しようとしたんだな。長続きはしなかった。


頭で理解することと感情で納得することは別で、頭では分かってるけど気持ちが追いつかない、ということはよくある。最近、というよりずっと考えてるのは、世のそもそもの価値観として、論理的/効率的/儲けを出す、みたいなひとまとまりのイメージが「強い」、「良い」とされていて、その逆は否定されがちであること。初めから前者が良いものと決まりきっていたら、どうやっても収益が薄い分野のものは軽んじられるし、その際に「感情論だから」とか「非効率的なことをしているから」といわれると批判としてなにかクリティカルな感じがする。でも元々、二項対立のどちらが優れているか、ではなくて得意分野の分担でしかないのに、と思う。例えばここに男女の二項を代入するとステレオタイプな男女像が浮かんでくるけれど、それもお互いに性別ではなくて、得意な方、やりたい方を選ぶことに躊躇いや不安のない社会になったらいいのに。その方がずっと創造的だ。


世の中、とか社会、とか打つと指がむずむずする。そして急激に気圧が下がってきた感じがして頭が重たくなってきたので、このあたりで一区切りにするね。

ジュン・チャンの、とりとめのない春の話を言いたい放題聞かせてください。