次に呑む日まで

呑める日が来るまでの往復書簡

第十二便 返信

あけましておめでとう、という定型句を放つ度に、「なんで明けたらめでたいんだ?」と考えている2022年年明け。

返信遅くなりごめんよ。今年もよろしく、ジュン・チャンです。

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九州は日差しが降り注ぎ、僕の知らない冬の様相です。地元は寒波の影響で、例年雪かきの要らない太平洋側の実家も大変らしい。

 

タカシナから受け取った第十二便、毎回のことではあるけれど、我ながら何度も何度も読み返した。引用元まで含めると、かなりの文章に浸ったと思う。その結果、率直に感じたのは「すっごい苦しくて何にも手につかない訳ではないけれど、ジンワリ苦しい感じ」だった。

ちょうどブレイディみかこ『他者の靴を履く アナーキック・エンパシーのすすめ』を読み進めていたタイミングでもあり、自分はタカシナに何を返せるんだろうと考えつつ、結局自分の所感を綴ることにした。

 

第十二便で随所に書かれていた「完璧な理解を相手に求めてしまう」というタカシナのもどかしさ(と僕は受け取った)を読んで、あることを思い出した。

去年、関西の友人と電話しているときに言われて、ハッとしたことがあった。「ジュン・チャンは、自分のことを受けれいてくれる、信頼できる人がいる、ということを想定していない、そもそも信じていないよね」と。自分にとってはそれが普通の感覚だったから指摘されて気づいた。もちろん、この指摘をした友人も、タカシナも、他にも、信頼して自分の話を委ねられる人に、沢山出会うことができたと思っている。

でも、その一方で自分は、子供の頃から、常にどこか他者に対して諦めて生きてきたところがあった。もしかしたら僕とタカシナは、そもそも相手に求める理解の立ち位置が違うのかもしれないね。

 

そんな僕だけれど、自分と似た属性の人に会い、救われたような気持ちになったこともある。

関西に住んでいた時に、LGBTQの当事者会に参加したことがあった。2回目の参加で自分と似た人に人生で初めて会った。その方は、身体は女性で、パッと見てメイクも服装も「女性らしい」装いだったが、子供の頃はボーイッシュな格好を好んだらしい。ちょっと定かではないけれど、性自認は男女どちらでもないとの認識で、性的指向はたしかバイセクシャルだったか。重ならない部分もあったけれど、お互いに意気投合したのを覚えている。あまりにも同じような人がいなかったから、とても嬉しくて、感激したのを覚えている。なのに連絡先まで交換していないのが自分らしいのだが。

 

こうした一連の体験を重ねるなかで、去年ふと気づいたけど、自分は今までずっと傷ついてきたのだと、ストンと腑に落ちた。自分が何者なのか、男女や恋愛の当たり前とされる中で悩んできたこと。東日本大震災で死を覚悟したこと。親の暴力。自身の虚弱さ。

最近やっとこのことに気づいたような身だから、タカシナの的に綺麗に当たる何かを投げ返せているとは思わない。

でも、きっとタカシナはもっと語りたいのだろうと思う。言葉にならない余白も含めて。「とても長くて、豊かで、ややこしい語り」を共有したいのだろう。

 

話が逸れるけれど、近年の学問の傾向として、草の根の「とても長くて、豊かで、ややこしい語り」にフォーカスした研究にも照射が当たっているように思う。僕が追究してきたテーマだと、戦争や震災による被害が挙げられる。もう少し柔らかいところでいくと、岸政彦先生の作品なんかも挙げられると思う。

こんな動きを見ていると、社会ってやつも、個人にフォーカスする時代になったんだなあと思う。一方で、全体主義的な価値観も確かに残存するのだけれど。

各自のややこしい語りを晒すことで、社会で蠢くいろんなものを暴くことにも繋がるのかもしれない。その先に、いつか各自の抱えてきたものが軽くなることがあったら、みんな多少生きやすくなるのかなあとも思う。

 

オミクロンだかなんだかの流行で読めない先行きだけど、もしかしたら3月に東京へ行くかもしれない。酒は難しいかもしれないけど、茶でもしばきながら、会ってもっと話したいね。

本州はまだ寒いのかな。着込んで動いて自家発電。暖かく過ごしてね。