次に呑む日まで

呑める日が来るまでの往復書簡

第七便 返信

ジュン・チャンです。こちらは雨が続いています。止んだかと思うとスコールみたいに降る瞬間もある。湿った土の匂いが立ち込める。今年も梅雨が巡ってきた。蒸し暑い日もあり、おでこに前髪がかかる時の不快度数が高まってきた。髪切りたい、刈り上げたい、デコ出したい。

本当にきた犬スペシャル。大切なもの、愛おしいものを語る時の人間は、本当に生き生きしている。最後の部分はゲラゲラ笑いながら読んだ。破壊神やん。犬、めちゃくちゃ元気なのが伝わってきたよ。文章なのに笑いが止まらなかった。数年前、京都へ遊びに来たタカシナに「純恋歌の歌詞がヤバい」と熱弁された時も、僕は混み合うバスの中で耐え切れず爆笑したのを思い出した。腹筋が割れるかと思った。

 

大切なもの、愛おしいもの、繋がりで、僕は姪っ子の話をしようと思う。

タカシナも知っての通り、僕らが大学生の時に姪っ子は生まれた。身内がいない東京で、姉は一人出産した。立ち会うことはできなかったけれど、生まれてすぐ病院に駆け付けた。今思えば、自分は身内代表だった。少しドキドキしながら部屋に行くと、ふにゃふにゃちっちゃい生き物が眠っていた。姉から抱き取った時、柔らかいなんてもんでない、ふにゃふにゃして軽い、形もはっきりしないような、とても頼りない感覚がした。ここまで当時を思い出しながら打っているが、泣けてきた。寄る歳の波を感じるね。東京にいる間は定期的に姉宅へ行き、成長過程を見守っていた。今思えば、就活や卒論、バイトがある中で、よく行っていたなあと思う。それも姪っ子が大切な存在だったからだと思う。

でも、なんで姪っ子をこんなに大切に思うのか、正直わからない。僕は自分の家族を大して大事には思っていない。むしろ、物理的に距離を取ることで、関係を保っている。ましてや姉のことは、好きでも嫌いでもない。一時期は、自分が子どもを産む気がない分、姉が孫を産んでくれたから、との理由も考えた。時間が経ち、今ではそんな打算的なものとも違うような気がしている。幸いにも、姪っ子について疎ましいと感じる程近くにいないから、ただ大切に思えるのかなあとも考え得る。まあともかく、家族、血縁に執着のない自分が、理由もわからず姪っ子を大事に思うのが、不思議で仕方がない。

姪っ子が生まれてから、彼女が生きる10年先、20年先、自分がこの世を去った後の世の中が、今よりマシになっているように、と思うようになった。姪っ子が生まれたから働こうと思ったし、今の仕事を選ぶに至った。依存的な考えだけど、彼女と出会わなければ、今の僕はなかっただろう。

姪っ子の未来を考えるようになり、昔に比べると生きることに前向きさが湧いてきたわけだが、磯野先生と宮野先生の往復書簡をもとにした著書『急に具合が悪くなる』にも触れよう。本書の「9便 世界を抜けてラインを描け!」で、宮野先生は三木清という哲学者の論を引用し、次のように述べている。

[「受取感情をどれほど遠い未来に延ばし得るか」と三木は言います。死に運命付けられ、消滅するだけの点であっても、世界に産み落とされた以上、その受取勘定を、自分を超えた先の未来に託すことができる。一人の打算ではなく、多くの点たちが降り立つ世界を想像し、遠い未来を思いやること、そのとき、私たちは初めてこの世界に参加し、ラインを引き、生きていくことができるのではないでしょうか。(P200)]

自分が死んだその先に、自分の言葉や行動を届けられるか。この論を読んだ時、そして磯野先生の講義で触れられた時、自分のなかで何かが定まった気がした。

実は僕が連休前に送った山脇益美詩集『朝見に行くよ』でも、未来に向けた決意、覚悟が書かれている。あとがきにあたる「泡の生まれた」の一節。

[この詩集は個人的なひとつの時代をパッケージしたのと同時に、100年先に届きたい気持ちを込めてつくりました。海みたいに、風みたいに、雨みたいに。夕暮れみたいに、朝焼けみたいに、音楽みたいに、コップ一杯の水みたいに、わたしの詩があなたの人生の透き間に沁みていくことを想像します。(P72)]

100年先へ届ける覚悟に打たれると同時に、[人生の透き間に沁みていく]と言い表わすしなやかさに、心震えた。だいたい読み物はまえがき、あとがきから読んでしまうタイプなんだけど、例に漏れず『朝見に行くよ』もあとがきから読んだ。あとがきだけでガツンッと流れに引き摺り込まれた。あの感覚はなかなか味わえない。綺麗な言葉を並べただけじゃ生まれない。未来へ届ける覚悟をして、研ぎ澄まさないと編み出せないものだ。

 

そうそう、電話で話したかもしれないけれど、昨年から今現在まで色々あったので、なんとなく名前の鑑定を受けてきた。「若いうちは苦労する、波がある」と言われ、「納得しかないけどまだ苦労すんのかよ」と内心思った。でも、「姪っ子との繋がりが深い。晩年も彼女が面倒を見る」と言われた。前半の散々な予測に比べて、たったそれだけのことなのに、心がじんわりした。最期姪っ子に看取ってもらえるなんて、僕にとっては贅沢な話。結果オーライ、終わりよければ全て良し。姪っ子の生きる社会が今よりマシであるように、地道にできることをしていきたい。仕事も、白米炊けた。も、今を生きる僕が未来に向けてできることであり、やるべきことだ。

 

ところで、次の話。今月、対話企画『揺らぐin別府』というのを始動する。初回のテーマは同性婚訴訟、レインボーパレードから、セクシャリティ、家族を取り上げる。もしよかったら、このテーマについて、タカシナの考察や所感など聞いてみたい。気が向いたらよろしく頼む。

 

【蛇足】どの作品か忘れたけど、ヤマシタトモコの短編で、ゲイの叔父が姉の産んだ主人公を可愛がっていた、という話を読んだことがある。高校生か大学生か、そんくらいの時期だけど、理由も分からず泣いたのを覚えている。

 

【参考】磯野真穂、宮野真生子『急に具合が悪くなる』

https://www.shobunsha.co.jp/?p=5493

山脇益美詩集『朝見に行くよ』

https://booth.pm/ja/items/2145838