次に呑む日まで

呑める日が来るまでの往復書簡

第十五便

ご無沙汰、ジュン・チャンです。

九州は殺人級の暑さが続いているけど、僕は食って寝てなんとか生きている。東京はもっと暑そう、タカシナは無事だろうか。久々に食べたしろくまアイスが激うまに感じた。

国試が終わって、今度は引越しに仕事の準備で、相変わらず慌ただしく過ごしている。もっとゆっくり、本読んで研究して過ごすはずだったんだけどなあ。こりゃ性分と流れだ、と諦めている。

 

さて、第十四便では以下の問題提起で結んでいる。

今回は、このことについて考えたことを、ウダウダ書いていく。

本題にも繋がる話題として、7月の参議院議員選挙についても触れたい。

白米炊けた。としては、選挙期間中、選挙後で2回、以下のようなお話企画を実施した。

選挙だよ!全員集合!『参議院議員選挙、どうする?』では20代から50代の方が10名ほど、各地から参加してくれた。

一方で、選挙おつかれ!ふて腐れ企画『宴のあとに ~我々は何度でも立ち上がる~』では30〜40代4名、20代1名の参加だった。

二つの企画を実施するにあたって、街で遭遇した方と政治について話す機会が増えた。そうした機会や、何個か行った街頭演説を経て思ったのが、以下のことだった。

特に思ったのが、たとえ自分が支持する政党だとしても、迎合しきれないな、という点だ。組織である以上は必ずイデオロギーがあり、どのような名目であれそこで提供される情報や学習内容に影響があることは必定。組織が大きくなればなるほど、上下関係や優劣が生じることも防ぎようがない。もちろん、組織として動くからこそ、具体的な問題解決が進むという実利もある。しかし、自分はあくまで一市民として、何らかの政治的圧力や影響を受けることなく、社会問題や政策のことを考えぬきたいと思った。ここまではただの感想と決意で、ちと話が逸れた。

 

今回の選挙において、核兵器所有や軍事増強に重きを置く公約が散見された。社会保障に関する公約も各政党で見られたが、現在岸田政権が強調しているのは前者の国防強化であるように、軍事増強に色めき立つような雰囲気さへなかったか。ロシアによるウクライナ侵攻があったから、国防強化に飛びつく人の気持ちもわからない訳ではないが、個人的にはまず外交努力が優先されるべきだと考える。

日本がアジア諸国に対して行った侵略は、戦後の謝罪や補償を一度したからチャラになるものではない。事実として世界に記憶されている。自分達が行った加害を認め、向き合い続けることはしんどい。でも、それはずっとやり続けなきゃいけないことだ。逃れられるものでは決してない。それを棚に上げて軍事増強、国防強化と謳うのは、第二次世界大戦での日本の行いについて、反省が見られないと諸外国から見られても仕方ない。こう話すと「自虐史観が子どもの自己肯定感を低下させている」と話す人が身近に本気でいたが、はっきり言ってそれは別の議論である。

 

加害の事実を否定し、蓋をして被害に遭った側を糾弾する、果ては責任を取ろうとしない。この構図がどうしても、性的マイノリティや部落出身者・外国人労働者在日朝鮮人等に対する人権侵害や、沖縄に押し付けている基地負担、性暴力被害者が置かれる状況、といったあらゆる社会問題に重なって見える。

身近なもので言えば、ハラスメントもそうだと思う。自分に都合の良いように相手に要求を呑んでほしいから起きることでもある。でもこれって、絶対自分の中にもあるよな、と思うのだ。自分が誰かを傷つけた事実を認めるのも、自分が傷つけられたことを認めるのも、両方しんどい。だからこそ、ハラスメントや性暴力の問題は難しいのだと思う。政治家にしろ、演出家にしろ、力を持つ側は、自分が持つ力にもっと自覚的であるべきだ。

自分は企画をしたり、対話の場をつくったりする者として、いつもどこかで「こわいなあ」と漠然と思っている。自分の発する言葉や振る舞いの一つ一つがどう作用するのか、無意識にめちゃくちゃ考えているような気がする。

 

ウダウダ書きすぎてまとまりがないことは分かっているけど、タカシナに送ります。きっとまた、違う視点を提示してくれたり、考察を深めたりするようなお返事があると期待して。

 

蝉は腹を空に向けて落下し、つくつくぼうしが鳴き出したけど、外は暑いし、中は上手いことやらないと冷えるし、夏ってこんなに難しい季節だったけ。くれぐれもご自愛ください。

感想文(2022年7月)

どうも、ジュン・チャンです。

7月は選挙や国試、引越しで思いの外慌ただしく、お手紙書けませんでした。

回復したら長々溜まってた色々をタカシナに送ると思います。楽しみに待っていて下さい。

 


【2022年7月】

(映画)

① 高見剛監督『風の記憶 湯布院・日生出台1996〜2022』

(本)

①藤本徹『青葱を切る』

山田宗樹『百年法 上・下』

 


【所感】

(映画)

①高見剛監督『風の記憶 湯布院・日生出台1996〜2022』

吉森睦子さんに誘われて、山を越えて行ってきた。当日17時に完成したらしい。カッコいい。

1995年の沖縄駐留米軍による少女暴行事件を機に、本土数箇所に訓練場が分散された。そのうちの一つが大分県の日生出台という場所だった。

自分は大学での恩師の一人が、この暴行事件を機に沖縄近現代史の研究を始めたこと等から、この手の話題には関心があり、人よりは知っていると思っていた。

しかし、大分県に軍事演習場があると知ったのは、大分に来てからだった。

映像では、反対運動がもともと町政と市民が一致団結して始まり、国の圧力から市民の活動となっていた流れが示されていた。こうした運動の流れ、米軍の演習や外出がルールを無視したものになっている現状について、丁寧に編まれていた。

印象に残ったのは、冒頭で衛藤さんが牛を放牧する場面、そして武器が強力化され激しさを増す軍事演習の場面だった。生活するスレスレの場で、人を殺すための兵器が演習の名の下に使われている現状。軍事費増強を掲げる政党に投票した人は、こうした現実を目の当たりにしたら何を思うのだろうか。

沖縄における米軍属による性暴力事件については、2016年にも、女性が米兵に暴行され、遺体を遺棄される事件もあった。他人事では全くない。

沖縄へ押しつけている基地負担、地方に強制的に押しつけられる軍事演習場。国による地方の軽視を感じざるをえない。

このような状況下で、2022年の参院選において「沖縄の米軍基地を東京に引き取る党」が東京選挙区から立候補したのは、考えるきっかけとして大きかったのではないかと思う。自分がそう思いたいだけかもしれないが。

上映後のトークで、衛藤さんが最後に言っていた「自分達の足元で起こっていることを無視しない」におおいに頷いた。身近な生活の場で生じる理不尽を、誰かが我慢を強いられるのを、僕は無視したままで生きたくない。

 


(本)

①藤本徹『青葱を切る』

カモシカ書店で一目惚れ。チマチマ読んできたが、国試が終わった夜に一気読み。

作品毎に変わる視点が面白い。詩を読んで場面が思い浮かぶって、とても楽しいこと。

hitofukiで夏にまつわる詩をいくつか声に出してみた。益々味わい深かった。

 


山田宗樹『百年法 上・下』

久々の小説。著者は『嫌われ松子の一生』原作者だった。正剛文庫よりずっと拝借していて、試験後にようやっと落ち着いて読み出す。

読み出したら止まらなくなり、下巻は「寝る前にちょっと読むか」と読み出したら読み終えてしまい、深夜1時を回っていた。同じ姿勢で微動だにせず4時間。ここまで読ませる本は原田マハ作品以来だ。

ジャンルとしてはSF作品らしいが、ないようでありそうな未来を描く。不老化処置を受けた人間は、処置から100年経過すると基本的人権を剥奪され、死を迎えることとなる。政治家、市民、警察、拒否者(100年の経過措置を拒否する者)など、あらゆる視点の登場人物が現れ、絡み合いながら物語は進む。その分、内容がとても立体的で現実味を帯びていた。

以下、印象に残った一文。スケールの大きな本作中で、何気ない場面で地味に真意を散りばめる著者の手腕よ。

[ しかし加藤には、なんとなく納得できた。人生を左右するほどの大きな決断が、常に衝撃的な事件が引き金になって下されるとは限らない。日々の何気ない出来事や出会った言葉が、いつの間にか、人の進むべき道を方向付けていく。後から振り返っても、どれか一つを選んで原因だと特定することは難しい。生きるとは、そういうものではないか。(下巻P59)]

完全無欠な社会も、政治体制も存在はしない。そのことを理解した上で、自分の感覚を研ぎ澄まし、かつ考え抜くこと。『彩雲国物語』という小説で、初の女性官吏という設定の主人公が言っていた台詞を思い出す。曰く「次善の策は考えない」である。

感想文(2022年6月)

どうも、ジュン・チャンです。

意図してないけど、選挙期間らしいチョイスもありました。

 

【2022年6月】

(映画)

① 『犬王』

② 『教育と愛国』

(本)

① 石崎 洋司『「オードリー・タン」の誕生 だれも取り残さない台湾の天才IT相』

② マーシャル・B・ローゼンバーグ 著/今井麻希子、鈴木重子、安納献 訳

『「わかりあえない」を越える――目の前のつながりから、共に未来をつくるコミュニケーション・NVC

 

 

 

(映画)

①『犬王』

声優のラインナップと予告編、そしてある方の感想を拝読し観たかった作品。

大分ではパークプレイスでしか上映がなく、どうしようかと思っていたが、前日にファーストデーであることに気づき、自分の予定も空いていることに気づき、一念発起して電車とバスで行ってきた。都会では当たり前だった公共交通機関での1時間〜1時間半が、車社会だと途方もない旅路に感じられる不思議。

旅路の果てに臨んだスクリーンは、一切の無駄のない作品を映し出した。筋の通ったアニメーションミュージカル。無駄なく、しかししっかり回収するストーリー。昔、北方謙三『破軍の星』や飴あられ作品で、南北朝時代にハマり調べまくったのを思い出した。短い時代の中に、のちの乱世へ繋がる日本の政治や文化の根っこがあった。そんなことにまで思い馳せてしまうくらい、ぎゅっとした構成だった。

そこに肉付けされる、権力闘争に敗れ歴史の中で葬り去られた側への弔い、芸の持つエネルギー。冒頭、厳島神社での琵琶法師の演奏から始まるように、芸は捧げるもの、鎮めるものであり、草の根で脈々と続き、時に人を熱狂させ、奮い立たせるということが貫かれた作品だった。歌い踊る身体の、伸び伸びとしなやかな美しさを表現したアニメーション、アヴちゃんと森山未來の声の力強さ・妖艶さ、震えた。マニアックな視点だが、映画の中での舞台裏方の様子、番外編で観たい。絶対楽しい!

 


②『教育と愛国』

林博史先生の『沖縄戦 強制された「集団自決」 (歴史文化ライブラリー)』を基にした授業で教科書問題について知った身としては、本当にジワジワくる内容だった。政治家達の発言、態度を聞きながら悔しくなった。気が遠くなるほどの時間をかけて丹念に研究されてきた学知への侮辱だな、と自分は思った。選挙の時期に言うのも何だが、公人としての発言・振る舞いに無責任な政治家の姿を見ると、政治家はTwitter禁止にした方が良いのではないかとさへ思ってしまった。

社会科の教員がインタビューの中で話していた「従軍慰安婦が時事問題として続いている」という言葉が印象的だった。

本作を、虐げられ、出る杭は打たれる社会のなかで、「女性」の監督が発信してくれたことが一つの希望だ。

個人的には、現行の政治や組織における無責任体制は、戦争責任を果たしていないところからも端を発すると考えている。では、戦争責任とは何か。過ちを認めることと自分は考える。なぜその過ちが起こったのかを考え、二度と同じ被害が起こらないように全力を尽くすこと。国が、国民が果たすべき責任ではないだろうか。

 

 

(本)

① 石崎 洋司『「オードリー・タン」の誕生 だれも取り残さない台湾の天才IT相』

本書は大原扁理さんのブログで知った。前からオードリー・タン氏についての書籍をどれか読みたいなあと思っていて、偶然図書館に本書があったので読んでみた。

最近、問題集や法令、ガイドラインに目を通しているので、児童向けに書かれた本書のフォントが目にやさしく、読みやすかった。

本書には、タイトルにもあるように、誰も取りこぼさない社会を作るためのヒントが詰まっていた。「おおまかな合意」という概念や、政策提言のサイトから参政権を持たない16歳の意見が政治に反映されたこと等が印象深かった。以下、「おおまかな合意」について本文より引用。

[しかし、権力者がいないのは当然として、民主主義を支える方法でもある投票や多数決を拒否するのはなぜでしょうか。そして、「おおまかな合意」というのはどういう意味なのでしょうか?

 これについて、オードリーはこういっています。

「投票をすれば、物事ははっきりと決まります。けれども、少数派は必ず敗者になってしまいます」

 除外された意見の異なる人々は、自分を殺して、ひっそりと息をひそめていなければなりません。

「一方、『おおまかな合意』とは、『満足できないにしても、みんなが受け入れられる合意』ということ。そこでは、思い通りになったという勝者もいないかわり、何ひとつ受け入れてもらえなかったという敗者もいません」

 こんな感じでいこうよ-それぐらいの合意で進んでいけば、より多くの人々が共存できて、より多様性のある文化を実現することができます。(P135〜P136)]

オードリー氏は持病を抱えた幼少期を過ごし、児童期には体罰の残る父権的な学校教育で苦しんだ。仮初の強さに迎合しなかった(できなかった)からこそ、生まれた発想だ。

議論のプロセスが見えず、政策決定の根拠が示されない、日本の現状とえらい違いだ。日本の場合、情報公開以前に、筋の通った政治が執り行われていないことが問題であるように感じる。

 


② マーシャル・B・ローゼンバーグ 著/今井麻希子、鈴木重子、安納献 訳

『「わかりあえない」を越える――目の前のつながりから、共に未来をつくるコミュニケーション・NVC

ハチドリ舎を友人が教えてくれた時に知った「NVC(非暴力コミュニケーション)」。この本は絶対にハチドリ舎で買おうと決めていた。本はどこで巡り会い、手に入れるかも大事だ。

しっかり読もうと思って、じっくり読んでいたら2ヶ月かかった。本書はNVCの理論について、エクササイズ(実践)を交えながら進む。

引用すると以下のようになる。

[本章をまとめると「自分の内面で何が息づいているか」を表現するためには、次の3つの要素が必要なのです。

 ・自分が観察していること

 ・自分がいだいている感情

 ・その感情とつながっているニーズ 

  (P69〜P70)]

本文では「自分の内面で何が息づいているか」という言葉もよく現れた。

自分や相手のことを決めつけず、まずは自分の中にあるニーズ(欲求と言ってもいいのかもしれない)を掴むことから始まる、と自分は認識した。

この数年起こった様々な出来事もあって、エクササイズを通して確信したが、「自分は大事にされたい、尊重されたい」という欲求が根っこにあるのだと理解した。誰もが持ちうる当然の欲求かもしれないが、自分はこの根っこに気づくのに、随分と時間が掛かった。慌てるよりも、腑に落ちて力が抜けた感覚の方が強い。

著者マーシャルがNVCを学び始めた頃の、お子とのやり取りに勇気づけられる。誰でも最初から完璧にできた訳ではないのだ。日々修行。実践的にもっと学びたいと思った。

最後にマーシャルが読者に投げかけているのが、

[・根本的に新しい経済システム

 ・現在この地球に多大な苦しみを与えているものとは異なる、新しい司法制度(P247)]であったのも印象的だった。資本主義の限界や、少年法における特定少年(厳罰化)等、日本にも当てはまる。個人的なことは政治的なこと、とよく言われるが、めげずにまずは自分から変わりたい。

第十四便 返信

大分は雨が降っています。今日は穏やかな雨です。

久しぶり、ジュン・チャンです。

こちらは退職後の手続きが完結し、ホッとしたところ。


この何年も言われていることだけど、ほんと気候までもが狂っていて、人類による環境破壊の因果が確実に巡ってきているのを感じる。そんな狂った気候で、体調を崩す層は確実に増えている。気象病の概念が認知されて、気候の体調への影響を自覚する人が増えているのもありそう。

仕事を辞めてから、国試に向けての勉強と並行して、旅に出たり、展示や上映会といった企画をしたりしていて、案外動いている。でも、働いていた時より体調は良い。肩から力が抜けたのがわかる。ずっと気を張っていたんだと思う。自分のペースで生活できているから、当然と言えば当然なんだけど。


自分より歳上の世代と話すと、基本は「若いうち、体力があるうちに」と言われ、時には年齢を羨ましがられる。正直言って僕は納得行かない。もちろん加齢に伴って、徐々に身体機能は変化し、それは通常衰えていくと認識されるから、間違ってはいない。

しかし、タカシナも綴っていたように、全ての人間が一概に体力があって元気なわけではない。ましてやホルモンバランスに左右されやすい身体に生まれた身としては、無理の積み重ねが身体にいかに影響するか、嫌というほど思い知らされてきた。

この辺も個人差があるから、左右されにくい人もいるだろうし。年齢や性別に関わらず、自分の身体に合った活動、過ごし方、休息の取り方を探っていくしかないじゃんね。

教育も社会も、休むことを許さない。本当に教えるべきは、休みながら細く長くどう生活していくかだし、国や組織がそのための環境を提供することが必要だろう。今やそんな余力は組織にないようにも感じる。

(2022年6月14日追記:いつも自分を見守ってくれる身近な人達については、自分の背中を押すために言ってくれているんだろうなとは思う。)


タカシナが書いていた[「筋肉があってちょっとやそっとじゃへこたれなくてバリバリ働いてお金を稼いで怖いものなしの健康な」人間]と言うのを、僕は信用できない。と言うか、ほんとに少数だと思う。

弱さに目を瞑る者に何がなし得るか、と僕は批判的に考える。今、この国で国政を担う者の姿とも重なる。

人の弱さを認めた上で成り立つ社会の方が、よっぽど健全な気がする。社会保障が他国より低く、生活保護費の引き下げまで起こるようなこの国が良い例だ。

身近な例としても、妊娠中の体調不良時に仕事を強要され、上司から休暇の了解を得られない同僚や、時短勤務と家事育児の両立に疲弊していく同僚が思い浮かぶ。かと言って、男性や独身者とて、過重な業務を担わされる等の理不尽な状況に晒されることも少なくない。組織を離れて、国が提示する仮初の「強さ」に準じたくない、という想いが僕は強くなっている。


今はまだ休養期間と定めたのを良いことに、色々考える期間にしていこうと思う。その一環で、次はこのことについて話し合っていきたい。

梅雨に入るしぼちぼちいこう。僕は除湿機の効果を実感している。タカシナも除湿機と豆ご飯の導入を試行してみて。僕は身体がスッキリして、怠さが軽減されたよ。この手のことって、まさにオーダーメイド人体実験だね。焦らずぼちぼち。

感想文(2022年5月)

爽やかな季節となりました。九州よりジュン・チャンです。お手紙の返事は週末に書きます。

 

【2022年5月】

(映画)

① 『屋根の上に吹く風は』

② 『ホリック xxxHOLiC

③ 『ちむぐりさ 菜の花の沖縄日記』

④ 『ふたつの部屋、ふたりの暮らし』

 


(本)

遠藤周作『沈黙(新潮文庫)』

②ローズマリ・サトクリフ作/猪熊葉子 訳『太陽の戦士』

③ ひすいこたろう『3秒でハッピーになる 超名言100 (3秒でハッピーになる名言セラピーシリーズ)』

 


【所感】

(映画)

① 『屋根の上に吹く風は』

広島のハチドリ舎を訪れた際に知り、急遽観に行った。鳥取県の山あいにある新田サドベリースクールの日常を捉えた作品。

冒頭、子ども達が屋根に登る場面から感極まった。画面を通して子ども達を観て、この場所と出会えて良かったなあと思った。

作中、洋ちゃんが「嫌なら嫌って自分の気持ちを言えた方が良い」と発言する場面があった。受けてきた教育や職場環境を振り返ると、自分の気持ちに蓋をして、嫌と言えなかった場面が多々あった。これって人権教育の根っこじゃんって後で思った。

上映前に参加してしまったトークショーも盛り沢山だった。「短期的な評価ではなく何を残せるか。」「自分で感じて考えて決めて行く。」とスタッフのどなたかが仰っていたようなのだが、自分の字が汚くてわからなかった。

教育基本法改正や教科書検定により、政治がジワジワと教育に介入し、戦前のような思考停止や、発言しづらい雰囲気が戻ってきている公教育とは対照的な取組みだ。

いずれにせよ、教育とはどんな未来を子どもに託したいかという、大人のエゴであり、思惑であり、願いであるようだ。子どもが主体的に考え、決定していくサドベリースクールが、希望に思えてならない。

https://www.yane-ue.com

 


② 『ホリック xxxHOLiC

原作と設定は同じだけど話が違っていて、観終わった後に批判が多いことを知った。とは言え自分、原作の記憶が朧げ、というかツバサと混じっている。個人的には、映像(舞台装置、照明、小道具が贅沢)も役者も美しいし、主題歌セカオワだし、美しかったから良い。

 


③ 『ちむぐりさ 菜の花の沖縄日記』

石川県から沖縄へ移住し、高校3年間を過ごした菜の花さんが見た沖縄を取り巻くドキュメンタリー。老成していると言えるくらい、とても落ち着いていて、17〜18歳とは思えなかった。声や話し方も静かで真摯で、聞きやすかった。

本作は沖縄テレビの記念作品とのことで、菜の花さん自身の体験、取材から考えたこと、行動したことの合間に、沖縄でこれまで起こってきた米軍軍属によるレイプ事件や飛行機墜落・部品落下、政府の対応についても組み込まれ、戦後沖縄が晒されてきた状況について視聴者が時系列で理解できるような構成になっていた。在任中に亡くなられた翁長県知事の映像も何度か流れたが、癌に冒されながら演説をする姿が流れた時、訃報を聞いた時の気持ちが蘇った。

大学卒業時、恩師の勧めで佐喜眞美術館を訪れた時のことを思い出した。米軍の普天間基地の真横に建ち、屋上からは飛行場内を見下ろすことができる。学校も住宅も基地の真横にあるが、轟音、低空飛行でヘリが飛んでいる樣が衝撃だった。青森にいた時「三沢基地から飛んできた機体がうるさい」と思っていたが、そんなの比にならないくらいだった。「戦争は終わってない」と直感的に思った佐喜眞美術館での実感が、今も自分の中で何かの原動力になっている。

映画のなかで、米軍のヘリから部品落下が続いたことを受けて、飛行制限の訴えを国にしていた女性の言葉が全てだ。「命の話をしている」人の生活がある。

やや飛躍するかもしれないし、個人的には男女比率なんて話をしているのが本来時代遅れだと思うのだが(男女で分けられたら自分の居場所がないため)、意思決定層の半分を女性にしないと、現状は変わらないようにも感じる。もちろん、男性優位を内包したり、事実を捻じ曲げ都合の良い神話を語るような輩ではなく。

http://chimugurisa.net/#intro

 


④ 『ふたつの部屋、ふたりの暮らし』

同じアパートの隣室に住む高齢のレズビアンの話、という説明書きで観に行った。

娘と息子がいるマドは、子ども達にカムアウトができないまま脳卒中で倒れ、会話や歩行に後遺症が残る。恋人のニナは、なんとかマドと一緒にいようと、あの手この手を尽くすが、二人の関係を周囲が知らない中で、事は上手く進まない。二人の関係を知って戸惑うマドの娘が、マドを施設に入所させるが、マドがニナに電話して場所が発覚し、ニナがマドをアパートに連れ帰るが…終わりはモヤっと中途半端。

本作を通して思ったのは、「意識がはっきりしているうちに、やるべきことはやっておかないとアカン」ということだった。合理的に考えると、子どもらからの拒否・反発に遭ったとしても、事前にニナとの関係についてカムアウトしておいた方が、何かあった時の体制づくりはしやすいはずだ。亡父からの虐待(と娘が表現している場面が作中あったため利用)を受けながら、離婚することなく看取り、子との関係も維持したマド。マドの臆病さ、弱さがなかったら、全く違う話になっていただろう。

かと言って、マドの臆病さを責められる人なんているのだろうか。恋人や家族といった、大切なものがあるなかで身動きが取れなかったマド自身の苦悩を想う。

劇中歌の効果ヤバしヤバし。最初と最後に流れる音楽同じだったけど、意味合いがまた違っていて、気持ちがシュンとした。

 


(本)

遠藤周作『沈黙(新潮文庫)』

人間はどこまでも惨いことができる。同じ人間を虫けらのように扱い、殺すことだってできる。

本作で描かれる江戸時代の百姓によるキリスト教の信仰とは、極楽浄土の信仰に近いようだった。現世利益のような。百姓の中には、信仰のためというよりも、現世での凄惨な人生を憂いて、拷問の末亡くなった者もいたのではないだろうか。

神とは何か、信仰とは何か。生きるとは。徹底して突き詰めていた。最後に司祭が至った境地について、圧倒されすぎて掴みきれなかった。

 


②ローズマリ・サトクリフ作/猪熊葉子 訳『太陽の戦士』

本作は、あの上橋菜穂子先生(守り人シリーズや『鹿の王』の著者であり、人類学者)が影響を受けた作品の一つらしい。上橋先生のエッセイで知り、ずっと読みたかったのを思い出し、とりあえず一冊読んでみた。

いわゆる「児童書」に分類される本の共通点として、情景の豊かさが挙げられる。特に、歴史やファンタジーとタグがつけられる作品は、その傾向が強いように思う。一行目を読み出した瞬間に、身体ごとマルっと引き込まれる感覚がある。本作を読み出した瞬間がまさにそれだった。風が吹き抜けた。

本作では、島の自然が作り出した景色の描写から物語が始まる。そこから間もなく、主人公ドレム少年が置かれる過酷な状況を、読者は知ることとなる。そこから、ドレムの闘いが幕を開ける。

風景や生活の描写だけではなく、狩りや戦闘の場面もリアルで、上橋作品に通じるものを感じた。主要な武器が槍であるところも、バルサを彷彿とさせた。圧巻の戦闘場面、主人公ドレムの苦悩と葛藤、哀しみを描いたのち、ラストが「こうきたか!」という感じだった。俗に言う「甘い雰囲気」なんか微塵もなく、しかしそれが良かった。同じ道を通過した者同士の、自然な結末。僕は背中合わせで一緒に闘う仲間の方が憧れるけど。守り人シリーズバルサとタンダの関係性も思い出した。

 


③ ひすいこたろう『3秒でハッピーになる 超名言100 (3秒でハッピーになる名言セラピーシリーズ)』

前職でご一緒した方からいただいた。就寝前にちょっとずつ読んだ。眠りにつくのに良い言葉のラインナップだった。気軽に見開きでパッと読めるのが良い。

観測(もういくつめかわからないけど)

クッソ久しぶりの観測です。ひらちゃんです。


タカシナの先ほどの投稿を読んで、そもそもそう元気な集まりでもないのだから書くときは書かないとだめだなと思った。気温差には私もやられています。タカシナ、ご自愛のほどお祈り申し上げます。


体調を崩したり、犬を飼ったり、犬を飼ったからと言ってすべての問題が解決するわけではもちろんなくて、本なんてもう二度と読めないと思ったり、その直後に勤め先の社長からドカッと課題図書が出たり(なんなんだ!ビジネス書と呼吸が合わない!)していたうえにタカシナもジュンちゃんもしっかり書いているし、どうにも後ろめたくて先延ばしていたのだけど。

継続が力にならなかったとしても自分だけはそれを信じたっていいわけです。


反省。

 

 

ジュン・チャンも書いていた早春公演「献呈」。Twitterで実況しながら公演の配信をみるということを初めてやってみた。もともと人のツイキャスだのスペースなんかはよく聞く方で実況には慣れているはずだったんだけど(怖い話好きの方にツイキャス「禍話」おすすめして回っている)、やはり映像だと情報量が多くて圧倒的に楽しいね。終わってからつくったひとにいいねしてもらえたのもすごく満たされた。

公演は見たいけど人と会う気力なんてないとき、終わってから人と話し合えないと思うとどうにも足が遠のいてしまっていた昨今だったけど、いぬを膝に乗せつつすきなものを観るというそれはそれで贅沢な時間だった。いぬはかまってもらえなくてキレてた。

 

こんなにみんなが家にいた日々を経て、めちゃくちゃ今更だけどね。大体の場合今更なのだ私は。でも、今更でも表明しないよりはうんといいと思うから。

 

この往復書簡を書きながら、会って飲む話を書いていることがそもそも面白かった。性別のことはあいかわらずわかる気もわからない気もしていて、ただ、釘をさされることについては思うところがたくさんあったので、変な方向からの共感をしながらみた。

 

知人が募集している、希望の分野の求人を見たんですよ。芸術関係を扱えるかもしれない求人。でもね、環境の変化に弱いだのタスク管理ができないだの、そもそもフルリモートだったのについに週2回出社しろと言われるようになって全く体調が管理できなかったり、そういったことを家族に指摘されてスルーしてしまったの。後悔?してるけど、もっと後悔するかもしれないと思ってしまった。そんなようなことを思い出した。思い出しただけだけどね。その程度のよすがで、公演は面白くみたけれど、ほんとうに、わかるわかる!と言えないことが苦しい。

ジュン・チャンの描いたジェンダーの話とは少しずれるけれど、性別にかかわるようなことで。

 

演劇の皆さんがセクハラとかパワハラとかの話をめちゃめちゃしていて、ここ数日はちょっと疲れてしまった。変えていこうと声を上げる人たちはすごいと思う。なんで疲れてるかって、自分にも身に覚えがあるからですよ。被害者だけじゃなくて、加害側として。性的なこともルッキズム的なことも、けいこ場内外でも舞台上でも呪いのように繰り返していた。いまだにかなりの熱量で可愛くない、セクシーでないから生きていたくないって思うことがまあ、ある。29歳にしてまだある。そういう場所にいたし、仕方ないと思ってもいた。当時セックスってかなり世界の中心だと思ってたから。

学生サークル以来演劇と直接かかわってはいないのだけれど、先日同サークルの友人と会ったときに言い合った。舞台上でセックスする先輩劇団に憧れた「わたしたち」は、誰も傷つけなくても演劇ができるなんてこと知らなかったよね、って。でも、それに関して言うならば、学生時代からとっくにタカシナもジュン・チャンもそういう演劇づくりをやっていてさ。そんな二人は続けていて、「わたしたち」はすっかりやめてしまって。ほんのちょっと隣を向けばいいだけだったのにね、って、今は思う。知っていたわけよ。考えていなかっただけ。

 

自分が発達障害だってわかって結構大変な思いして、マイノリティ面してここにも書いてきたけど、あれは紛れもなく加害だった。ごめんなさい。生きづらい世界を作ってきました。2人にだけ謝ったってしょうがないけどね。

 

ジュン・チャンが自分自身を嫌いじゃないというとき、何でだかそれが救いのように思う。

きちんと吸って、吐いて、新世界を作ります。まずは今作れるものを。


(演劇以降はじめて続いていること、そろそろ外に出た方がいいのかもしれない。わたしもね。)


最近読んだもの。

ダンス・ダンス・ダンスール(ジョージ朝倉)コミックス最新刊まで

今期のアニメの原作。バレエは昔やっていて、もう辞めてからの方が長いのだけど、やっとバレエ絡みのフィクションを楽しめるようになってうれしい。誰かの前に立ったとき、目の裏に散る星を見ていたい気持ちは一緒だなと思う。だんだん自由になるね。

第十四便

お久しぶりです。タカシナです。
何度も手紙を書こうとしてうまく書けないで、ずいぶん日が経ってしまいました。

寒暖差と気圧と気候にやられまくって寝込む日々です。どうしたらこの脆弱さのままで生きてゆけるのだろうかと、そんなことを考えてしまう。脆弱さはたぶん多少改善することはできても根本的には無くせないまま私に付きまとうもので、だからそこを変えるだとか無理をさせることは最近あまり考えなくなった。けれど生まれつきの体質を呪ったりはする。
私には強さへの憧れがある。強い人間だというふうに振舞おうとした時期もあった。その後双極性障害の診断がついて、私は本格的に弱い、というか強いふりを続けられないと思い知った。それでもなお、憧れは捨てられていない。自分とは正反対の、筋肉があってちょっとやそっとじゃへこたれなくてバリバリ働いてお金を稼いで怖いものなしの健康な、そんな人間になりたかった。実際の私は雨が降っただけで寝込む有様だというのに。

なりたい自分になりたいの、と違国日記の朝ちゃんは言う。なりたい自分と現状の自分の乖離があまりに激しいとき、それはあまり健康的な考えを導かない。理想が高すぎるのだ。水中の生き物が空を飛ぶ鳥に憧れて何になろう。

自分の、「強さ」という観念に対するバイアスについても考えなくはない。「筋肉があってちょっとやそっとじゃへこたれなくてバリバリ働いてお金を稼いで怖いものなしの健康な」人間というのはつまり、いまのこの社会における強者であって、言ってみれば社会に適応するための強さである。けれど本来は切り捨てられた弱さのなかにも見るべきものがあり、すべては相対的でしかなくて、弱さを評価する方法だってあるということ。私の「強い/弱い」の捉え方が一義的なのだとは頭でわかっていて、けれど価値観を変えるのは難しい。

もし私がバキバキに強い人間だったら演劇にも興味を持たずジュン・チャンとも出会わなかったかもしれない、と思うと、現在の自分を否定ばかりしても仕方ないな、とも少しは思うのだけど。

今回はこれ以上書けなさそうなので、短めだけど出してしまおうと思います。
ジュン・チャンもご自愛~。