次に呑む日まで

呑める日が来るまでの往復書簡

第二便

タカシナです。この度は、なにかを始めたいっていうふんわりしたやつに乗っかってくれてありがとう。返信、ふつうに楽しんで読みました。


昨日ジュン・チャンにTwitterでお勧めされた磯野真穂さんの書籍、『ダイエット幻想 やせること、愛されること』、そういえばと思ってKindleの底の方をあさってみたら、ありました。筑摩の電子書籍Amazonでセールになっていたときに購入していたのだった。まさにデジタル積ん読


で、読みました。面白かった~!

とりあえずわーっと一気読みして、今その興奮のままにこの第二便を書いています。示された論点の多さに伴って読み終わっての感想もいくつかの側面があり、まさに昨日受けてきた講座で示されたルッキズム・エイジズム・セクシズムのこと、それから身体の自己管理という名で行われる社会的な要請の内面化、とか、数値で管理した食事が奪う「ふつうに食べる」こと、及び食べること以外でも実は簡単に身体から失われる「ふつう」のふるまいのこと、とか、いろんな事を思ったのですが。


せっかく第一便で「孤独」の話をしたので、少しそれに関連づけて私の「食べること」の話をしてみようかな、と思います。


私は第一便で「書くことで孤独になれる」と言った。それは間違いではないけれど、綺麗な言い方を選んでいる感覚もある。

確かに書くことや、本や漫画、演劇などを楽しんでいるときも、私はひとりだ。

ジュン・チャンの返信にあったように、違国日記では(おそらく意図的に)よくそういうシーンが差し込まれているよね。えみりちゃんがひとりで自分を救いうる映画をじっと見ているあの顔。シャーペンを一人カチカチと打つときの顔。槙生ちゃんがパソコンに向かっているときの横顔。朝が暗い部屋でスマホの灯りだけ頼りに槙生ちゃんの本を読んでいるときの顔。友人や家族に向けるものとは違う、ひとりのときの顔。

そしてまさにジュン・チャンが言うように、「人は人の中にいてもひとりで、でも、ゆるーく周りの人と繋がってんだよなあ」なんだよね。


創作行為それ自体や創作物につかのま溺れるようにすることでひとりの時間を得る、というのはなんというか、割と健全な部類の「ひとりになる方法」だと思う。依存性も比較的少ないのではないかな。それが故に、例えば「なにかが不安でしょうがない」といったような状態の人には、気持ちをそらすことができるような趣味は如何ですか、の文脈で、「気楽な映画でも見たら」というようなアドバイスをされることがある。

これが例えばお酒やギャンブル、性行為みたいに、快楽も強いけど依存性も強くリスクが多く伴うものだと、そうはいかないはず。


『ダイエット幻想』で紹介される、「ふつうに食べること」が身体的な感覚として失われた状態の方々のエピソードを読みながら、私は過食に陥っていた頃、ひとりになりたくて食べていたのだな、とふと思った。

食べたいものを選んで、並べて、食べる。例えば駅前の混雑したファミレス。店員さんが料理を置いて去ったあと、私はガヤガヤとした店内で目の前の食事にだけ集中すればよく、それはかなり上等に「ひとり」であったように思う。

その頃の私は、他人からもそうだし何より自分から逃げたかった。だからもう定義としては孤独、とかひとり、でもないかもしれない。なにかをしていなければ自分から発せられるネガティブな思考ですぐにいっぱいになってしまうから、そのたび食べているうちに、それこそ「ふつうに食べる」習慣は自分からあっという間に失われてしまい、そこに当時飲んでいた薬の副作用も加わってぱんっぱんに太った。たぶんその頃もリアルで会ってると思うから、なにかしらやべえなこいつ、というのはジュン・チャンにも伝わっていたとは思うんだけど。


まあそういう経緯で太ったので、鏡で自分を見る度におそろしいほど自己嫌悪におそわれたんだけど、過食癖がある程度収まってきたあるとき「でもあの頃の私から過食取ったらもっと悪いことになってたな、生きるために太ったんだな」と、開き直りが訪れ、それ以降は適切なダイエットとともに自分を襲っていたものの正体が知りたくて本を読んだりしていた。同じ磯野さんの著書で、『ダイエット幻想』に繋がる位置づけでもある『なぜふつうに食べられないのか 拒食と過食の文化人類学』を読んだのもその頃。


過食や拒食を行う当事者の語りが多い『なぜふつうに食べられないのか』は、もう単純にわかる、共感する、という次元で読んでいた。学術書であるということを一旦置いて、私自身が取り込まれている過食について、当事者の言葉のもたらす気付きがすごく多かった。

だからといってすぐに私の逸脱した食行動が即直る、みたいないい感じの話は無かったのだけど。

   

と思いつつ本棚から当該書を持ってきて久々に開いてみたら、「結城も田辺も、過食中に自分の世界への没入を過食の利点として挙げている」(p.225)と、まさに当事者が過食をそういうものとして捉えているという語りの場面があって、ああやっぱり、と思った。

他人からも自分からも逃げて一つのものに集中しているようで、それでいて頭が空っぽでもあるような、私は過食のそうした側面に依存していたのだなあ、と。


鬱状態というのは脳がが使いすぎでオーバーヒートを起こしている状態だから、脳を休める唯一の方法であるところの「寝る」、これしか対処はないよ、とかつて主治医が言っておりました。診察室での一コマなのでどれくらい正しいか分からないけど、実感にはそぐう。

食べ続けるよりは寝るほうがマシだろうか。


実家でステイホーム勢としては、物理的にひとりになれないなかでどうやって「ひとりになる」か、というのは結構切実な問題であったりもします。

間違えると、容易に、なにかしらへの依存で達成されてしまうような気がする。そういう恐怖感がある。

そういう意味でも、書くことや、本や漫画を読むこと、何かを調べたり解釈したりすること、そうした営みを繰り返すことでの没入で自分を保っていられている現在は、結構上手いこと自分をドライブできてるのでは?と思ったりもしています。

まあこれを書いた次の日には気圧やPMSで寝込んでいるかもしれないんだけどね。


幸いにして、鬱だし寝たら起きらんないし起きたら過食だし、というような精神的にめちゃくちゃだった時期というのは既に過去のことなので、今はそういうことはないし、このようにある程度突き放して話すことが可能です。

とはいえ、楽しい話ではないからわざわざ話さないんだけど。初めてくらいに他人に話すんじゃないかな。

二通目にして話題選択がヘビーになってしまってごめんね……。ジュン・チャンと以前から磯野さんの著作については話したりしていたので、というのを口実に、思い切りそっちの話になりました。

時々猛烈にひとりになりたくなるときがあるけど、ひとりといいつつ結局色んな人と関わって、助けられながら生きていくのが実情なんだろうなあ。


ちなみに、ミッドナイト・スワンは見ていません。配信あるのかな。

重たそうな映画を見るのをどうしても避けておかゆみたいな作品ばかり見てしまうので、積み映画も減らないままです。


蒸し風呂行きたいよ〜!いましたいことの上から3番目くらいに、「スーパー銭湯に行って思い切り汗を流した後併設の食堂でジョッキビールを飲み干す」っていうのがあります。

他には「駅ビルのPLAZAとかで特にいま必要ではない化粧品や雑貨を真剣に見て、必要じゃないのに眉マスカラとか買っちゃったりして、帰ってきて開けて使ってみて色味見てなるほど……と思う」とか「磯丸水産イカを焼く」とかがあります。


このあたり、大分/東京、また一人暮らし/高齢者と同居、というようなお互いの暮らす環境の違いによってかなり違うんだろうな。

コロナは、ひとりひとりに正解のない選択を強いるうえに互いのそれを比べてリスクがどうこう、みたいにこれまた答えのない問答や批判をしあう土壌を生んだりもして、嫌な感じですね。うちらも会って飲めないし。


最後になりますが、ジュン・チャンの挙げてくれた好きなおつまみたち、「ホタルイカの沖漬け、ポテサラ、卵焼き、クリームチーズ酒盗の組み合わせ」これ全部私も好きです。この感じだと合わせるのは日本酒と踏んだけどどうでしょう。

今度は、大分のおすすめの地酒を教えてください。


ちなみに私の最近のおすすめは「壱岐」という長崎の焼酎です。妹が買ってきてご相伴に預かったんだけど、すごくて、ウイスキーみたいな熟成したいい香りがします。ぬるーい水割りにすると天国。永遠に舐められる。

https://www.mugishochu-iki.com/selection/iki-supergold22.html


ではでは。