次に呑む日まで

呑める日が来るまでの往復書簡

観測(もういくつめかわからないけど)

クッソ久しぶりの観測です。ひらちゃんです。


タカシナの先ほどの投稿を読んで、そもそもそう元気な集まりでもないのだから書くときは書かないとだめだなと思った。気温差には私もやられています。タカシナ、ご自愛のほどお祈り申し上げます。


体調を崩したり、犬を飼ったり、犬を飼ったからと言ってすべての問題が解決するわけではもちろんなくて、本なんてもう二度と読めないと思ったり、その直後に勤め先の社長からドカッと課題図書が出たり(なんなんだ!ビジネス書と呼吸が合わない!)していたうえにタカシナもジュンちゃんもしっかり書いているし、どうにも後ろめたくて先延ばしていたのだけど。

継続が力にならなかったとしても自分だけはそれを信じたっていいわけです。


反省。

 

 

ジュン・チャンも書いていた早春公演「献呈」。Twitterで実況しながら公演の配信をみるということを初めてやってみた。もともと人のツイキャスだのスペースなんかはよく聞く方で実況には慣れているはずだったんだけど(怖い話好きの方にツイキャス「禍話」おすすめして回っている)、やはり映像だと情報量が多くて圧倒的に楽しいね。終わってからつくったひとにいいねしてもらえたのもすごく満たされた。

公演は見たいけど人と会う気力なんてないとき、終わってから人と話し合えないと思うとどうにも足が遠のいてしまっていた昨今だったけど、いぬを膝に乗せつつすきなものを観るというそれはそれで贅沢な時間だった。いぬはかまってもらえなくてキレてた。

 

こんなにみんなが家にいた日々を経て、めちゃくちゃ今更だけどね。大体の場合今更なのだ私は。でも、今更でも表明しないよりはうんといいと思うから。

 

この往復書簡を書きながら、会って飲む話を書いていることがそもそも面白かった。性別のことはあいかわらずわかる気もわからない気もしていて、ただ、釘をさされることについては思うところがたくさんあったので、変な方向からの共感をしながらみた。

 

知人が募集している、希望の分野の求人を見たんですよ。芸術関係を扱えるかもしれない求人。でもね、環境の変化に弱いだのタスク管理ができないだの、そもそもフルリモートだったのについに週2回出社しろと言われるようになって全く体調が管理できなかったり、そういったことを家族に指摘されてスルーしてしまったの。後悔?してるけど、もっと後悔するかもしれないと思ってしまった。そんなようなことを思い出した。思い出しただけだけどね。その程度のよすがで、公演は面白くみたけれど、ほんとうに、わかるわかる!と言えないことが苦しい。

ジュン・チャンの描いたジェンダーの話とは少しずれるけれど、性別にかかわるようなことで。

 

演劇の皆さんがセクハラとかパワハラとかの話をめちゃめちゃしていて、ここ数日はちょっと疲れてしまった。変えていこうと声を上げる人たちはすごいと思う。なんで疲れてるかって、自分にも身に覚えがあるからですよ。被害者だけじゃなくて、加害側として。性的なこともルッキズム的なことも、けいこ場内外でも舞台上でも呪いのように繰り返していた。いまだにかなりの熱量で可愛くない、セクシーでないから生きていたくないって思うことがまあ、ある。29歳にしてまだある。そういう場所にいたし、仕方ないと思ってもいた。当時セックスってかなり世界の中心だと思ってたから。

学生サークル以来演劇と直接かかわってはいないのだけれど、先日同サークルの友人と会ったときに言い合った。舞台上でセックスする先輩劇団に憧れた「わたしたち」は、誰も傷つけなくても演劇ができるなんてこと知らなかったよね、って。でも、それに関して言うならば、学生時代からとっくにタカシナもジュン・チャンもそういう演劇づくりをやっていてさ。そんな二人は続けていて、「わたしたち」はすっかりやめてしまって。ほんのちょっと隣を向けばいいだけだったのにね、って、今は思う。知っていたわけよ。考えていなかっただけ。

 

自分が発達障害だってわかって結構大変な思いして、マイノリティ面してここにも書いてきたけど、あれは紛れもなく加害だった。ごめんなさい。生きづらい世界を作ってきました。2人にだけ謝ったってしょうがないけどね。

 

ジュン・チャンが自分自身を嫌いじゃないというとき、何でだかそれが救いのように思う。

きちんと吸って、吐いて、新世界を作ります。まずは今作れるものを。


(演劇以降はじめて続いていること、そろそろ外に出た方がいいのかもしれない。わたしもね。)


最近読んだもの。

ダンス・ダンス・ダンスール(ジョージ朝倉)コミックス最新刊まで

今期のアニメの原作。バレエは昔やっていて、もう辞めてからの方が長いのだけど、やっとバレエ絡みのフィクションを楽しめるようになってうれしい。誰かの前に立ったとき、目の裏に散る星を見ていたい気持ちは一緒だなと思う。だんだん自由になるね。

第十四便

お久しぶりです。タカシナです。
何度も手紙を書こうとしてうまく書けないで、ずいぶん日が経ってしまいました。

寒暖差と気圧と気候にやられまくって寝込む日々です。どうしたらこの脆弱さのままで生きてゆけるのだろうかと、そんなことを考えてしまう。脆弱さはたぶん多少改善することはできても根本的には無くせないまま私に付きまとうもので、だからそこを変えるだとか無理をさせることは最近あまり考えなくなった。けれど生まれつきの体質を呪ったりはする。
私には強さへの憧れがある。強い人間だというふうに振舞おうとした時期もあった。その後双極性障害の診断がついて、私は本格的に弱い、というか強いふりを続けられないと思い知った。それでもなお、憧れは捨てられていない。自分とは正反対の、筋肉があってちょっとやそっとじゃへこたれなくてバリバリ働いてお金を稼いで怖いものなしの健康な、そんな人間になりたかった。実際の私は雨が降っただけで寝込む有様だというのに。

なりたい自分になりたいの、と違国日記の朝ちゃんは言う。なりたい自分と現状の自分の乖離があまりに激しいとき、それはあまり健康的な考えを導かない。理想が高すぎるのだ。水中の生き物が空を飛ぶ鳥に憧れて何になろう。

自分の、「強さ」という観念に対するバイアスについても考えなくはない。「筋肉があってちょっとやそっとじゃへこたれなくてバリバリ働いてお金を稼いで怖いものなしの健康な」人間というのはつまり、いまのこの社会における強者であって、言ってみれば社会に適応するための強さである。けれど本来は切り捨てられた弱さのなかにも見るべきものがあり、すべては相対的でしかなくて、弱さを評価する方法だってあるということ。私の「強い/弱い」の捉え方が一義的なのだとは頭でわかっていて、けれど価値観を変えるのは難しい。

もし私がバキバキに強い人間だったら演劇にも興味を持たずジュン・チャンとも出会わなかったかもしれない、と思うと、現在の自分を否定ばかりしても仕方ないな、とも少しは思うのだけど。

今回はこれ以上書けなさそうなので、短めだけど出してしまおうと思います。
ジュン・チャンもご自愛~。

感想文(2022年4月)

仕事辞めました。ジュン・チャンです。

広島のSocial Book Cafe ハチドリ舎に先日行ってきました。ハチドリ舎に触発され、なんかできないかなあと考えた時に、プライベートでしか公開していなかった読書感想文の公開を思いつきました。タカシナも快諾してくれました。映画が含まれることもあります。ひとまずはこれまで同様に、1ヶ月分掲載します。

 

【2022年4月】

(映画)

ザイダ・バリルート監督『TOVE/トーベ』

 

(本)

群ようこ『かるい生活』

② 磯野 真穂『他者と生きる リスク・病い・死をめぐる人類学 (集英社新書)』

③ 武田 泰淳『富士 (中公文庫)』

④ 上間 陽子『海をあげる』

⑤ 永田豊隆『妻はサバイバー』

アルテイシア『離婚しそうな私が結婚を続けている29の理由 (幻冬舎文庫)』

⑦ キム・ジヘ 著、 尹怡景    翻訳『差別はたいてい悪意のない人がする』


【所感】

(映画)

ザイダ・バリルート監督『TOVE/トーベ』

図書館へ行く途中に貼ってあったポスターで上映に気づいた。ブルーバード戦略にまんまとハマり、行ってみた。

本作ではムーミンの作者、トーベ・ヤンソンの30代から40代に焦点を当てていた。本業の画家として奮闘しながら、生活の糧のためにムーミン作品を書いていた姿とともに、自由を愛する芸術家としての姿が、対人関係を通して描かれる。

第二次世界大戦後、自分の選んだ道を進む女達がカッコ良かった。衣装や髪型、化粧に至るまでも観ていて楽しかった。トーベがムーミン作品で売れてからも、お金がなかった時と同じアトリエで制作し、生活している場面も素敵だった。

愛し続けた人との恋人関係的な部分の別れ、厳格だった父の死を経て、芸術家としてのトーベはより研ぎ澄まされていったのだろうなあ。

自分もこれから頑張らねばならんと思った。


(本)

群ようこ『かるい生活』

再読。ゆるかった。身軽が一番。ムダ毛のエピソードは本書掲載であった。


② 磯野 真穂『他者と生きる リスク・病い・死をめぐる人類学 (集英社新書)』

今月、本書の刊行記念講座を受講した。受講間際、東京の行き帰りにバタバタ読んだので、全体を掴めているとは言い難いが、本書の論旨は「おわりに」の以下の箇所にまとめられているように思う。

[愛と信頼の力を駆動させるためには、関係性の内側から引き出される時間の風力に信を寄せ、未来に向かって飛んでみるしかない。外部の「正しさ」に思考と行動の根拠を委譲させることをよしとするリスク管理が封じるのは、そのような風の生成と跳躍の可能性であろう。(P274)]

上記について述べるため、本書では我々を「リスク」の下にがんじがらめにするものを整理していく。例えば、非専門家の想像力に介入しリスクを実感させ、情報に身体を寄り添わせ現実の実態を形作り、生活を再編成していくこと(P69,P84)について、脳梗塞や新型コロナウィルス等を例に述べていく。また、あるデータが真実性を帯びファクト化されていく過程や(P150〜152,P187)、「自分らしさ」の語られ方(P176〜177)、それらを下支えする人間観の共謀関係(第7章)について、示されていく。

自分が感じたのは、前著『なぜふつうに食べられないのか: 拒食と過食の文化人類学』『ダイエット幻想 (ちくまプリマー新書)』との繋がりだった。「自分らしさ」の基準を、自分の外部に委ねることのリスクを一貫して論じてきている、と自分は受け取った。本当に偶然であるが、一研究者の探究をリアルで追うことができ、驚嘆している。

刊行講座で磯野先生が触れていた「タイトルの「他者」は人間だけを指すのではない」という発言が記憶に残った。


③ 武田 泰淳『富士 (中公文庫)』

文庫本とは思えない分厚さに恐れ慄いたが、読み出したら数日で読めた。あびちゃんお勧めの武田作品。

人間は等しく愚かで浅ましい。そんな人間が、「神」的な崇拝・心酔の対象になってしまうこと、あるいはそのような対象を作り出してしまうこと。この二点について、徹底的に取り上げていたように思う。考え尽くす行為そのものが認められない様相を炙り出す。

また、「病気」「障害」とは何かについて、文学者として書き切っていたとも思う。文学の力を見せつけられた。これは渦中に身を置く当事者では成し得なかった。


④ 上間 陽子『海をあげる』

何かで書評を見て気になっていた。あえて言うならば社会派エッセイとでもなろうか。でも、そんな簡単にジャンル分けして括りたくない本だった。

本書に在るのは、日本から差別され負担を強いられる沖縄における、性被害と貧困の日常にまざまざと接し、だからこそ日々を懸命に過ごそうとする人の、静かだが必死な声だ。

自分は「何も響かない」「海をあげる」を悔しい気持ちで読んだ。特に「何も響かない」は悔しくて泣いた。とても悔しかったとしか言いようがない。支援とは、決まった枠組みに都合良く人をはめ込むことではないはずだ。

「空を駆ける」ではまた別の意味合いで泣いた。祖父が亡くなった時を思い出した。もう3年墓参りができていない。海から手を合わせる。


⑤ 永田豊隆『妻はサバイバー』

期間限定公開されているのを偶然見かけて読み出したら、最後まで読み切ってしまった。朝日新聞記者が書いた、幼少期のトラウマ、性被害に苦しむ妻との途方もないサバイブの日々。文章の端々に、著者の記者として、人としての誠実さを感じた。

みんな子どもの時に受けたものを抱えていくしかない。受けた衝撃が大きければ大きいほど、ずっと影響する。目の前に現れる人、隣にいる人が抱えるものを前にした時に、ただ一緒に在ることしかできない。

児童へのサポートは大人になってからの人生にも繋がる。大人になってから現れた問題にどう対処し生きていけるかも、両方大事な視点だ。残念ながら両方とも充実した社会とは言い切れない。家族へのサポート・ケアも同様に。いつまで家族制度を引きずって負担を押し付けていくのか。

永田さんの妻が、永田さんと出会えて良かったと思ってしまった。永田さんがM医師と会えたことも。しかし、そんな確率論の話でいいのか、とも思う。


アルテイシア『離婚しそうな私が結婚を続けている29の理由 (幻冬舎文庫)』

カモシカ書店でちらっとみた。全部は読んでいないが、呪いを爆笑しながら解いてくる、全人類の味方のようなエッセイだった。


⑦ キム・ジヘ 著、 尹怡景    翻訳『差別はたいてい悪意のない人がする』

自分は比較的、差別されること・することに敏感な方だとは思う。これまで学んできたこと、体験したことがベースにあり、何より疑問を放置せず追究してきたからだろう。

一方で、そんな自分でさへ、無神経な発言をしたり、場の空気に流され押し黙ったりするようなことがあり、後から忸怩たる想いに苛まれることも多々ある。自分の中にある加害性とどう向き合うかが、今一つのテーマにもなっている。

そんな問題意識で目につくものを色々読み漁っていて、何かの参考に入っていた本書。偶然カモシカ書店で発見し購入。

原文がそもそも読みやすいのか、翻訳の力なのかわからないが、大変読みやすい文章だった。

本書では、そもそもなぜ差別が生じるのか、日常の中で誰しもが(人権や差別に関する研究をしている専門家であっても)差別し得ることを、具体的な事例とともに述べている。

さらには、なぜそのことが問題となるか、先行研究(主に欧米の研究が中心)を基に論じることで、想定される反論へ先んじて回答を与えているような綿密な論旨となっていた。逆に言うと、それだけ反発が予想されるセンシティブで起爆剤となるテーマを突きつけているとも言えよう。

金美珍氏の解説により、韓国社会の動向について補強され、読み応えのある内容となっていた。

最後の章では、韓国における差別禁止法の成立に向けて、積極的に議論を行なっていくことで、現行法案の限界を超えた平等な社会の実現に近づく、という提言で締め括られていた。

読み進めながら、日本の現状を観ているような気持ちになった。しかし、差別に関する独立した行政機関がないことや、裁判所の対応を比べると、日本の人権問題の方が後進しているように感じ暗澹とした気持ちになった。

差別に対抗するために、個人でできる具体的な指針になる箇所を引用する。

[私たちの考えは、みずからの視野に制限される。抑圧された人は、体型的に作動する社会構造を見ることができず、自分の不幸を一時的、あるいは偶然の結果だと認識する。そのため、差別と闘うよりは「仕方ない」と受けとめることを選択する。一方で、有利な立場にいる人は、抑圧を感じる機会は少なく、視野はさらに制約される。かれらは、差別が存在すると言う人を理解できず、「過敏すぎる」「不平不満が多い」「特権を享受しようとする」などと相手を非難する。

 だから、私たちは疑問を持ち続ける必要がある。世の中はほんとうに平等なのか。私の人生はほんとうに差別と無関係なのか。視野を広げるための考察は、すべての人に必要だ。私には見えないものを指摘してくれるだれかがいれば、視野に入っていなかった死角を発見する機会になる。考察する時間を設けるようにしないかぎり、私たちは慣れ親しんだ社会秩序にただ無意識的に従い、差別に加担することになるだろう。何ごともそうであるように、平等もまた、ある日突然に実現されるわけではない。(P85)]

[差別をめぐる緊張には、「自分が差別する側でなければいいな」という強い願望、ないしは希望が介在している。ほんとうに決断しなければならないのは、それにもかかわらず、世の中存在する不平等と差別を直視する勇気を持っているかという問題である。差別に敏感にも鈍感にもなりうる自分の位置を自覚し、慣れ親しんだ発言や行動、制度がときに差別になるかもしれないという認識をもって世の中を眺めることができるだろうか。自分の目には見えなかった差別をだれかに指摘されたとき、防御のために否定するのではなく、謙虚な姿勢で相手の話に耳をかたむけ、自己を省みることができるだろうか。(P201)]

早春公演『献呈』によせて

白米炊けた。7年振りの東京進出。

白米炊けた。発起人ジュン・チャンです。今回は番外編投稿だ。

10年来の業務提携先である(石榴の花が咲いてる。)に脚本を託した。

今日、中野さんがやっと脱稿した。遅かった。けど、おつかれさまでした。脱稿した「CONfi( )n( )E.」をざっと読んで過ったのは「痛いところを突く」「暴力的」と言ったザワザワする感情だった。一方で、「ただ在るだけでいい」と肯定するものもないまぜになっていた。「CONfi( )n( )E.」を読んで、磯野先生(文化人類学、医療人類学)が何かの講義で触れていた、ラベリングの危険性を連想した。

例えば、うつ病等の診断名がつくことで、診断された当事者が積極的に「うつ病患者」らしくなろうとする、等。

今回の企画に当て嵌めるならば、僕が書いた「はなむけ」(余談だが、本作のタイトルは「夜を越えて」と悩みました)で語られる、性自認性的指向、表現したい性についても、ラベリングの危険性はあるだろう。しかし、それらは流動性があることも勿論前提とする。

個人的な体験だが、友人に「自分は人を恋愛的に好きにはなれない気がする」「自分を男でも女でもないと思っている」というような話をした時に、「あなたはそうじゃないんじゃない?」「色々知識を得たからそう思ったんじゃないの」と返されたことがある。その友人は、性別変更をしようとする人が辿る、煩雑で大変な過程を知っていたからこそ「生半可にそんなことを言うな」という釘刺しの意図で発言していた。

あれから7〜8年が経ったと思う。

相変わらず僕は、特定の誰かに特別好意を抱くという情動が分からない。このままいくのか、もしかしたら特定の誰かを恋愛的に想ったりすることが今後あるのか。わからないけれど、今の僕は、多分前より自分が嫌いじゃない。アセクシャルノンセクシャルXジェンダー……自分の状態に当て嵌まりそうな名称を得た安心感に安住してしまっている。ただ、それと同時に、括られたくないと思う自分も相変わらずいる。僕を僕個人として見て欲しい、認めて欲しいと思ってしまう、この欲は。

自分はどこにいるのだろう。

 

以下に磯野真穂『ダイエット幻想-やせること、愛されること』を読んだ僕の所感(2020年8月の読書感想文より)を抜粋する。

磯野先生曰く、本書は『なぜふつうに食べられないのか:拒食と過食の文化人類学』で拾いきれなかった部分(どう生きていくか)に論を割いている、とのこと。本書での試みは、「自分らしさ」を過剰に求めながらも、一定の枠に嵌め込もうとする暗黙の規範から自由になること、と受け取った。点(タグ)で自身を認識する・されるだけでなく、一つのラインとして生を描くことで、個々の物語が育まれる。『急に具合が悪くなる』を読み返したくなった。

学部生時代、磯野先生の演習で「人間は物語を求めてしまうものである」と締めくくられた時にはしっくり理解できなかったものが、なんとなく繋がってきたような気がする。生きることと学問は繋がっていくのだなあ。学問は人を生かすためにあると信じたい。

以下、印象に残った箇所を抜粋。読み返したらほぼ要約になった。

「《わたし》は自分の中ではなく、他者との差異の中に存在しているのです。《わたし》と異なる他者が《わたし》を存在させており、他者とは違う《わたし》が他者を存在させています。だからこそ自分探しを始めると、それまで以上に他者に呼びかけてほしくなります。自分探しとは、他者と自分を比較し、自分の望む形で相手が自分を呼びかけてくれるよう、他者に合図を送る作業でもあるのです。(P40)」

「他者から「やせたね」、「かわいくなったね」と言われて嬉しくなり、やせることによって友人関係が良好になって、さらには恋人ができる。そういう形で自分自身を立て直すと、その他者からの呼びかけがないと今度は不安になってしまいます。自分がどう思うか、自分がどう感じるかではなく、他者の評価が自分自身の寄って立つところになっていくのです。(P48)」

「「赤」や「二」といった概念で何かをまとめる際、私たちは内部の多様性に目をつむる必要があるということを意味します。(中略)色や数字といった言葉を使って何かをまとめ上げる時、私たちはその中にある多様性や、違う見方ができる可能性を切り捨て、それらを全く同じものとして扱うのです。(P122)」

「数で表されたものは、客観的で中立的なものと考えられ、それゆえに説得力を持ちます。ですが実際はそんなことはありません。何かが数えられるときそこには管理という独特な目線が入り込み、その目線の出所には、管理者が何を重要視し、何を軽視するかという管理側の世界観があるのです。(P126)」

「(注:湯澤規子『7袋のポテトチップス』晶文社からの引用箇所)これまで私たちは感覚を手ばなして言葉を使うようになることを「進歩」と考えてきた。主観的にでなく、客観的に説明する方法を追い求め、一期一会の事ごとよりも、事物の再現性の中に、科学的根拠を見出してきた。こうした状況は本当に進歩と言えるのだろうか。(P181)」

「自分らしさを見出したいのなら、自己分析をするよりも、世界と具体的に関わり、その中であなたと世界の間に何が生成されるのか、それにどんな意味があるのかを身体全体で感じ取れる力を養った方がいいでしょう。(P191)」

「生きるとは、やせるという必死の能動を通し、他者から愛されやすい受動的な点に自らを変換することではありません。生きるとは、自分と異なる様々な存在と巡り会い、その出会いに乗り込みながら、互いを作り出すこと。そして、その現れを手がかりにし、次の一歩を踏み出し、進むこと。生きるとは、そんな出会い、現れ、歩みの連なりであるはずです。(P210)]

ごちゃごちゃ述べてきたけれど、今の僕は、大切な人達と過ごす時間を大事にしたいと思っています。

咲き出した桜とともに、『献呈』しかと受け取りました。本番、大変楽しみにしております。

 

(石榴の花が咲いてる。)2022年早春公演

『献呈』

4月2日(土)

14:30(公開ゲネプロ)

17:00

19:30

*上演時間は2本合わせて60分程度

*受付開始・開場は各回の30分前

於 兎亭(東京都練馬区旭丘1-46-12 エイケツビルB1)https://usagitei11.amebaownd.com/

演目:

ジュン・チャン(白米炊けた。)作「はなむけ」

中野雄斗(石榴の花が咲いてる。)作「CONfi( )n( )E.」

出演:

佐藤勇輝

永谷ちゃづけ

中野雄斗(石榴の花が咲いてる。)

演出・舞台監督:

中野雄斗(石榴の花が咲いてる。)

照明:寿里

チケット、予約:

①来場チケット(当日、会場でご覧になる方)…2,000円

②生配信チケット(上演の同時生配信をご覧になる方)…1,500円

アーカイブ配信チケット(上演映像をご覧になる方。4/2(土)夜~30(土)配信予定)…1,500円

[①ご来場予約フォーム」https://www.quartet-online.net/ticket/zueignung?m=0tfhjbc

[②③生配信及びアーカイブ予約フォーム]https://passmarket.yahoo.co.jp/event/show/detail/02z5e7gj7k821.html

 

どう生きたって、僕は読んだ本や学んだ知識からは逃れられない。でも、そうやってなんとか生き延びてきた。これからだって。勇気を持って、生きていくんだ。

ヤマシタトモコ『違国日記』6巻、8巻https://www.shodensha.co.jp/ikokunikki/

白野ほなみ『わたしは壁になりたい』https://comic.pixiv.net/works/5627

朝井リョウ『正欲』https://www.shinchosha.co.jp/seiyoku/

第十三便 返信

ようやく、ようやく昼間は少しずつ暖かくなってきて、待ち望んでいたはずの春だけど、気は塞いだままだ。原因が自分の中にあるのか外にあるのか、おそらく両方だろうと思いつつ、それでも春は嬉しい。

今回、三篇の詩を贈られて、正直なところ初めは戸惑った。というのも詩の感想に気の利いたことなんて私は言えないから(そんなの気にすることないよー、というジュン・チャンの声が聞こえるようだ)。

それでも言うと、最初に読んだ時から、ジュン・チャンがひとりで歩いていくイメージが浮かんだ。ひとりでいることを受け入れて、ただ淡々と歩いていく姿。その先にはやがて光があるらしい。歩いている今が夜闇のなかだからか。そんな風にしてどこまでも歩いて行ったら一体どこに着くのだろう。ただ歩く背中が小さくなっていく。

二本の足を動かすだけできっとどこにだって行けるのに、私はいつだってどこへだって行けると思っていたいのに、そうもいかないこの二年だった。私達はいまだに会って呑めていない。私は私の足が何のためにあるのか忘れてしまいそうで怖い。遠くへ行くためにある、その筋肉が衰えてゆくのが怖い。
だからジュン・チャンの、足を止めない姿に憧れる。歩き続けてそのあとに道を作るような、分け入ってゆく足取りに。

「言葉で表現することについて、それを受け取ることについて、タカシナが何を考えるか聞いてみたいなあと思う。」
前回の書簡でもらったこの問いかけ。今まで意識したことがなかったから、答えに悩む。

言葉で表現することは私にとってなんなのだろう。分からないけれど、回数は多くないにせよ、しないではいられないことなのかもしれない。語れることよりも語りえぬことのほうがよっぽど多く、それは私が世界を知らないからで、半径の狭いことしか確たる手触りをもって書けない。それに意味があるとは思わないけれど、私は私のために書いている。いつかどこかで見た「あなたはまず読み手ではなくあなたのために書いていい」という意味合いの言葉を心に置いている。私が私をまず第一に救わないといけないから。書くことは時に不思議と上等の救いとなる。

言葉を受け取ることについてはもっと難しい。普段のやり取りの中では言葉はするすると流れて行ってしまうものだから、ずっしりと手応えをもって「受け取った」となる機会は少ない。私が忘れっぽいだけかもしれない。それでも時々宝箱から取り出して眺めるみたいな言葉はあって、たぶん言ったほうはとっくに忘れているような些細なことなんだけど、私が勝手にがっつり受けとって奥の方に仕舞いこんでいる。そうして、いつもは敢えてそれらのことは忘れるようにしている、再生を繰り返して擦り切れてしまったり、別のなにかに変容してしまうのが怖いから。他人から受け取って、そんなふうにナイーブな付き合いをしている言葉もある。

言葉で考え言葉で話して書いてそうして生きてきて、そのなかで言葉は大体において私の味方でいてくれた。これからもそうでいてくれると嬉しい。

そちらはもうだいぶ暖かいのだろうか。3月11日の企画、成功を遠くから祈っているね。

第十三便

 

久々書き出し、ジュン・チャンです。

毎年1月は発熱やら腹を壊すやら扁桃腺炎やら、体調不良のオンパレードだったけど、今年は上手くバランスを取って過ごせた。自分でも感心している。足と腹を冷やさない、食べすぎない飲みすぎない、夜更かししない。基本的なことが大事だったようだ。

2月に入り、九州は日の出が少し早くなった。相変わらず寒い日が続いているけれど、朝起きやすくなった。やっぱり僕は、季節の日照時間に合わせて生活した方が良いと確信した。関東はまだまだ寒いのだろうなあ。東京のビル風が冷たかったのを思い出す。

さて、ちょっと話題を緩めようと思っていて、何を書こうかと考えてみた。今までと趣向を変えて、僕が今年1月にあった企画のために書いた詩を贈ろうと思う。

 

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『はじまり』

本気で物を生み出す人は、言葉も真摯だ

泥まみれの自分なんか、きっとこの場には相応しくない

けれども

この眩ゆい光を支えるために

勇気を出して、言葉を紡ごう

繋いでいく、輪のような

すべては、ここからはじまる

 

『決意の詩』

自分はまともだという奴ほど、まともじゃない

言葉が面白い、と軽々しく言う奴ほどタチが悪い

そういう奴ほど、自分の話したことはどんどん忘れていく

結局どうだって良いのだ

そんな奴といる時間が無駄だ


横にいる人との連帯

それだけが生きるための頼りだ

背負っていく孤独

それは生きるための糧になる


孤独に堪えきれず

泣いてしまう夜もあるけれど

ひとり漂っていくしかない

漂白の旅、そんなもんだ


進もう

真っ暗闇を手探りで

いつか見える

光を信じて

 

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『ひさかたの光を待つ』

今年の冬は寒い

山のてっぺんには雪が積もったままだ

白い山頂を見上げながら

長い坂道を登っていく


友を失った

永遠に続くと思っていた

呆気なく千切られた

あれから時が経ち

新たな友を得て

なんとか今、ここに立っている


17時半にもなると真っ暗だ

眠気が込み上げてくる

ぼーっと湯に浸かる


湯上がり

外に出ると、吐く息が白い

雪はあたたかい

氷はあつい


厳寒の闇の中

うずくまりながら

ただただ春を待つ

つま先が冷たい

蝋梅が夜に薫る


ともすれば息を吸うように

向こう岸へ渡ろうとする僕を

引き止める

いったいなんなのか


分厚い雲の隙間から

光が射した

少しずつ青空が広がっていく

ぽつりぽつりと咲き出した菜の花が

春の訪れをひっそり告げていた

今はもう少し、この寒さと戯れていよう


あなたが越えないといけない

ひとりの夜が

優しいものでありますように

 

 

一連の詩は、服飾作家と工芸作家のクローズイベントで朗読した。朗読や音楽に踊りを合わせていただき、とんでもねえライブ作品となった。めちゃくちゃ楽しかった。

『決意の詩』は、1年前にタカシナに原案を送っているけど、今回の企画意図や自分の心境の変化もあり、改編している。こうやって詩を書くこと自体10年以上やっていなかったし、人前で発表するなんて初めてだった。

タカシナも僕も、これまでの往復書簡の中で、よく文章や歌詞を引用してきた。言葉で表現することについて、それを受け取ることについて、タカシナが何を考えるか聞いてみたいなあと思う。

あまり難しく考えず、徒然なる感じにお返事下さいな。

 

あと、今年も3月11日に朗読企画を行う。上記からも一部読み上げる。やれる限りは継続したいと強く思う。去年贈った、18歳の時の文章も読み上げる。

第五便 - 次に呑む日まで

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寒の戻りがまだまだ厳しい。お互いあったかくして過ごそう。お腹と腰にカイロが沁みるぜ。

第十二便 返信

あけましておめでとう、という定型句を放つ度に、「なんで明けたらめでたいんだ?」と考えている2022年年明け。

返信遅くなりごめんよ。今年もよろしく、ジュン・チャンです。

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九州は日差しが降り注ぎ、僕の知らない冬の様相です。地元は寒波の影響で、例年雪かきの要らない太平洋側の実家も大変らしい。

 

タカシナから受け取った第十二便、毎回のことではあるけれど、我ながら何度も何度も読み返した。引用元まで含めると、かなりの文章に浸ったと思う。その結果、率直に感じたのは「すっごい苦しくて何にも手につかない訳ではないけれど、ジンワリ苦しい感じ」だった。

ちょうどブレイディみかこ『他者の靴を履く アナーキック・エンパシーのすすめ』を読み進めていたタイミングでもあり、自分はタカシナに何を返せるんだろうと考えつつ、結局自分の所感を綴ることにした。

 

第十二便で随所に書かれていた「完璧な理解を相手に求めてしまう」というタカシナのもどかしさ(と僕は受け取った)を読んで、あることを思い出した。

去年、関西の友人と電話しているときに言われて、ハッとしたことがあった。「ジュン・チャンは、自分のことを受けれいてくれる、信頼できる人がいる、ということを想定していない、そもそも信じていないよね」と。自分にとってはそれが普通の感覚だったから指摘されて気づいた。もちろん、この指摘をした友人も、タカシナも、他にも、信頼して自分の話を委ねられる人に、沢山出会うことができたと思っている。

でも、その一方で自分は、子供の頃から、常にどこか他者に対して諦めて生きてきたところがあった。もしかしたら僕とタカシナは、そもそも相手に求める理解の立ち位置が違うのかもしれないね。

 

そんな僕だけれど、自分と似た属性の人に会い、救われたような気持ちになったこともある。

関西に住んでいた時に、LGBTQの当事者会に参加したことがあった。2回目の参加で自分と似た人に人生で初めて会った。その方は、身体は女性で、パッと見てメイクも服装も「女性らしい」装いだったが、子供の頃はボーイッシュな格好を好んだらしい。ちょっと定かではないけれど、性自認は男女どちらでもないとの認識で、性的指向はたしかバイセクシャルだったか。重ならない部分もあったけれど、お互いに意気投合したのを覚えている。あまりにも同じような人がいなかったから、とても嬉しくて、感激したのを覚えている。なのに連絡先まで交換していないのが自分らしいのだが。

 

こうした一連の体験を重ねるなかで、去年ふと気づいたけど、自分は今までずっと傷ついてきたのだと、ストンと腑に落ちた。自分が何者なのか、男女や恋愛の当たり前とされる中で悩んできたこと。東日本大震災で死を覚悟したこと。親の暴力。自身の虚弱さ。

最近やっとこのことに気づいたような身だから、タカシナの的に綺麗に当たる何かを投げ返せているとは思わない。

でも、きっとタカシナはもっと語りたいのだろうと思う。言葉にならない余白も含めて。「とても長くて、豊かで、ややこしい語り」を共有したいのだろう。

 

話が逸れるけれど、近年の学問の傾向として、草の根の「とても長くて、豊かで、ややこしい語り」にフォーカスした研究にも照射が当たっているように思う。僕が追究してきたテーマだと、戦争や震災による被害が挙げられる。もう少し柔らかいところでいくと、岸政彦先生の作品なんかも挙げられると思う。

こんな動きを見ていると、社会ってやつも、個人にフォーカスする時代になったんだなあと思う。一方で、全体主義的な価値観も確かに残存するのだけれど。

各自のややこしい語りを晒すことで、社会で蠢くいろんなものを暴くことにも繋がるのかもしれない。その先に、いつか各自の抱えてきたものが軽くなることがあったら、みんな多少生きやすくなるのかなあとも思う。

 

オミクロンだかなんだかの流行で読めない先行きだけど、もしかしたら3月に東京へ行くかもしれない。酒は難しいかもしれないけど、茶でもしばきながら、会ってもっと話したいね。

本州はまだ寒いのかな。着込んで動いて自家発電。暖かく過ごしてね。