次に呑む日まで

呑める日が来るまでの往復書簡

第十三便 返信

ようやく、ようやく昼間は少しずつ暖かくなってきて、待ち望んでいたはずの春だけど、気は塞いだままだ。原因が自分の中にあるのか外にあるのか、おそらく両方だろうと思いつつ、それでも春は嬉しい。

今回、三篇の詩を贈られて、正直なところ初めは戸惑った。というのも詩の感想に気の利いたことなんて私は言えないから(そんなの気にすることないよー、というジュン・チャンの声が聞こえるようだ)。

それでも言うと、最初に読んだ時から、ジュン・チャンがひとりで歩いていくイメージが浮かんだ。ひとりでいることを受け入れて、ただ淡々と歩いていく姿。その先にはやがて光があるらしい。歩いている今が夜闇のなかだからか。そんな風にしてどこまでも歩いて行ったら一体どこに着くのだろう。ただ歩く背中が小さくなっていく。

二本の足を動かすだけできっとどこにだって行けるのに、私はいつだってどこへだって行けると思っていたいのに、そうもいかないこの二年だった。私達はいまだに会って呑めていない。私は私の足が何のためにあるのか忘れてしまいそうで怖い。遠くへ行くためにある、その筋肉が衰えてゆくのが怖い。
だからジュン・チャンの、足を止めない姿に憧れる。歩き続けてそのあとに道を作るような、分け入ってゆく足取りに。

「言葉で表現することについて、それを受け取ることについて、タカシナが何を考えるか聞いてみたいなあと思う。」
前回の書簡でもらったこの問いかけ。今まで意識したことがなかったから、答えに悩む。

言葉で表現することは私にとってなんなのだろう。分からないけれど、回数は多くないにせよ、しないではいられないことなのかもしれない。語れることよりも語りえぬことのほうがよっぽど多く、それは私が世界を知らないからで、半径の狭いことしか確たる手触りをもって書けない。それに意味があるとは思わないけれど、私は私のために書いている。いつかどこかで見た「あなたはまず読み手ではなくあなたのために書いていい」という意味合いの言葉を心に置いている。私が私をまず第一に救わないといけないから。書くことは時に不思議と上等の救いとなる。

言葉を受け取ることについてはもっと難しい。普段のやり取りの中では言葉はするすると流れて行ってしまうものだから、ずっしりと手応えをもって「受け取った」となる機会は少ない。私が忘れっぽいだけかもしれない。それでも時々宝箱から取り出して眺めるみたいな言葉はあって、たぶん言ったほうはとっくに忘れているような些細なことなんだけど、私が勝手にがっつり受けとって奥の方に仕舞いこんでいる。そうして、いつもは敢えてそれらのことは忘れるようにしている、再生を繰り返して擦り切れてしまったり、別のなにかに変容してしまうのが怖いから。他人から受け取って、そんなふうにナイーブな付き合いをしている言葉もある。

言葉で考え言葉で話して書いてそうして生きてきて、そのなかで言葉は大体において私の味方でいてくれた。これからもそうでいてくれると嬉しい。

そちらはもうだいぶ暖かいのだろうか。3月11日の企画、成功を遠くから祈っているね。

第十三便

 

久々書き出し、ジュン・チャンです。

毎年1月は発熱やら腹を壊すやら扁桃腺炎やら、体調不良のオンパレードだったけど、今年は上手くバランスを取って過ごせた。自分でも感心している。足と腹を冷やさない、食べすぎない飲みすぎない、夜更かししない。基本的なことが大事だったようだ。

2月に入り、九州は日の出が少し早くなった。相変わらず寒い日が続いているけれど、朝起きやすくなった。やっぱり僕は、季節の日照時間に合わせて生活した方が良いと確信した。関東はまだまだ寒いのだろうなあ。東京のビル風が冷たかったのを思い出す。

さて、ちょっと話題を緩めようと思っていて、何を書こうかと考えてみた。今までと趣向を変えて、僕が今年1月にあった企画のために書いた詩を贈ろうと思う。

 

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『はじまり』

本気で物を生み出す人は、言葉も真摯だ

泥まみれの自分なんか、きっとこの場には相応しくない

けれども

この眩ゆい光を支えるために

勇気を出して、言葉を紡ごう

繋いでいく、輪のような

すべては、ここからはじまる

 

『決意の詩』

自分はまともだという奴ほど、まともじゃない

言葉が面白い、と軽々しく言う奴ほどタチが悪い

そういう奴ほど、自分の話したことはどんどん忘れていく

結局どうだって良いのだ

そんな奴といる時間が無駄だ


横にいる人との連帯

それだけが生きるための頼りだ

背負っていく孤独

それは生きるための糧になる


孤独に堪えきれず

泣いてしまう夜もあるけれど

ひとり漂っていくしかない

漂白の旅、そんなもんだ


進もう

真っ暗闇を手探りで

いつか見える

光を信じて

 

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『ひさかたの光を待つ』

今年の冬は寒い

山のてっぺんには雪が積もったままだ

白い山頂を見上げながら

長い坂道を登っていく


友を失った

永遠に続くと思っていた

呆気なく千切られた

あれから時が経ち

新たな友を得て

なんとか今、ここに立っている


17時半にもなると真っ暗だ

眠気が込み上げてくる

ぼーっと湯に浸かる


湯上がり

外に出ると、吐く息が白い

雪はあたたかい

氷はあつい


厳寒の闇の中

うずくまりながら

ただただ春を待つ

つま先が冷たい

蝋梅が夜に薫る


ともすれば息を吸うように

向こう岸へ渡ろうとする僕を

引き止める

いったいなんなのか


分厚い雲の隙間から

光が射した

少しずつ青空が広がっていく

ぽつりぽつりと咲き出した菜の花が

春の訪れをひっそり告げていた

今はもう少し、この寒さと戯れていよう


あなたが越えないといけない

ひとりの夜が

優しいものでありますように

 

 

一連の詩は、服飾作家と工芸作家のクローズイベントで朗読した。朗読や音楽に踊りを合わせていただき、とんでもねえライブ作品となった。めちゃくちゃ楽しかった。

『決意の詩』は、1年前にタカシナに原案を送っているけど、今回の企画意図や自分の心境の変化もあり、改編している。こうやって詩を書くこと自体10年以上やっていなかったし、人前で発表するなんて初めてだった。

タカシナも僕も、これまでの往復書簡の中で、よく文章や歌詞を引用してきた。言葉で表現することについて、それを受け取ることについて、タカシナが何を考えるか聞いてみたいなあと思う。

あまり難しく考えず、徒然なる感じにお返事下さいな。

 

あと、今年も3月11日に朗読企画を行う。上記からも一部読み上げる。やれる限りは継続したいと強く思う。去年贈った、18歳の時の文章も読み上げる。

第五便 - 次に呑む日まで

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寒の戻りがまだまだ厳しい。お互いあったかくして過ごそう。お腹と腰にカイロが沁みるぜ。

第十二便 返信

あけましておめでとう、という定型句を放つ度に、「なんで明けたらめでたいんだ?」と考えている2022年年明け。

返信遅くなりごめんよ。今年もよろしく、ジュン・チャンです。

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九州は日差しが降り注ぎ、僕の知らない冬の様相です。地元は寒波の影響で、例年雪かきの要らない太平洋側の実家も大変らしい。

 

タカシナから受け取った第十二便、毎回のことではあるけれど、我ながら何度も何度も読み返した。引用元まで含めると、かなりの文章に浸ったと思う。その結果、率直に感じたのは「すっごい苦しくて何にも手につかない訳ではないけれど、ジンワリ苦しい感じ」だった。

ちょうどブレイディみかこ『他者の靴を履く アナーキック・エンパシーのすすめ』を読み進めていたタイミングでもあり、自分はタカシナに何を返せるんだろうと考えつつ、結局自分の所感を綴ることにした。

 

第十二便で随所に書かれていた「完璧な理解を相手に求めてしまう」というタカシナのもどかしさ(と僕は受け取った)を読んで、あることを思い出した。

去年、関西の友人と電話しているときに言われて、ハッとしたことがあった。「ジュン・チャンは、自分のことを受けれいてくれる、信頼できる人がいる、ということを想定していない、そもそも信じていないよね」と。自分にとってはそれが普通の感覚だったから指摘されて気づいた。もちろん、この指摘をした友人も、タカシナも、他にも、信頼して自分の話を委ねられる人に、沢山出会うことができたと思っている。

でも、その一方で自分は、子供の頃から、常にどこか他者に対して諦めて生きてきたところがあった。もしかしたら僕とタカシナは、そもそも相手に求める理解の立ち位置が違うのかもしれないね。

 

そんな僕だけれど、自分と似た属性の人に会い、救われたような気持ちになったこともある。

関西に住んでいた時に、LGBTQの当事者会に参加したことがあった。2回目の参加で自分と似た人に人生で初めて会った。その方は、身体は女性で、パッと見てメイクも服装も「女性らしい」装いだったが、子供の頃はボーイッシュな格好を好んだらしい。ちょっと定かではないけれど、性自認は男女どちらでもないとの認識で、性的指向はたしかバイセクシャルだったか。重ならない部分もあったけれど、お互いに意気投合したのを覚えている。あまりにも同じような人がいなかったから、とても嬉しくて、感激したのを覚えている。なのに連絡先まで交換していないのが自分らしいのだが。

 

こうした一連の体験を重ねるなかで、去年ふと気づいたけど、自分は今までずっと傷ついてきたのだと、ストンと腑に落ちた。自分が何者なのか、男女や恋愛の当たり前とされる中で悩んできたこと。東日本大震災で死を覚悟したこと。親の暴力。自身の虚弱さ。

最近やっとこのことに気づいたような身だから、タカシナの的に綺麗に当たる何かを投げ返せているとは思わない。

でも、きっとタカシナはもっと語りたいのだろうと思う。言葉にならない余白も含めて。「とても長くて、豊かで、ややこしい語り」を共有したいのだろう。

 

話が逸れるけれど、近年の学問の傾向として、草の根の「とても長くて、豊かで、ややこしい語り」にフォーカスした研究にも照射が当たっているように思う。僕が追究してきたテーマだと、戦争や震災による被害が挙げられる。もう少し柔らかいところでいくと、岸政彦先生の作品なんかも挙げられると思う。

こんな動きを見ていると、社会ってやつも、個人にフォーカスする時代になったんだなあと思う。一方で、全体主義的な価値観も確かに残存するのだけれど。

各自のややこしい語りを晒すことで、社会で蠢くいろんなものを暴くことにも繋がるのかもしれない。その先に、いつか各自の抱えてきたものが軽くなることがあったら、みんな多少生きやすくなるのかなあとも思う。

 

オミクロンだかなんだかの流行で読めない先行きだけど、もしかしたら3月に東京へ行くかもしれない。酒は難しいかもしれないけど、茶でもしばきながら、会ってもっと話したいね。

本州はまだ寒いのかな。着込んで動いて自家発電。暖かく過ごしてね。

第十二便

寒さに体が全く付いていかない。早く春になれと怨嗟の声を上げる毎日。そんなわけで返信が滞って申し訳ない。

ジュン・チャンの前回の返信で私が印象に残ったのはこの部分でした。思えば私達は何度もこういう話をしている気がします。

ちなみに僕は最近、このマジョリティとかマイノリティとかいうのにもしっくりこない感覚を抱いている。いわゆるマイノリティに分類される中でも、さらにその中で対立や力関係が働き、マイノリティの中にもさらに細分化されてマイノリティがいるような感じがするからだ。 また、僕自身が社会的にはマジョリティでありながら、性自認性的指向についてはマイノリティに位置する、複数の立場(この言葉が適切か悩ましいが)を持つからだろうけど。 かと言って、自分がどの立場の代表とも思わない。僕はただ、僕なんである。同じように、タカシナもタカシナである。個人のぼやっとした生きづらさの話を、もっとしやすい社会だといいのになあ。

第十一便 返信 - 次に呑む日まで

この話を聞いて私が想起したのが、最近某所で習った「インターセクショナリティ」という考え方で、この概念に対し私の理解がまだ十全ではないだろうことも合わせて以下の記事から特に話題と合致するように思える部分を引用します。

インターセクショナリティ=交差性という言葉から、それぞれ個別の2種類の差別がたまたま交わっている、というようなイメージを持たれるかもしれません。人種差別という道路と女性差別という道路があって、交差点には両方の差別に関係する黒人女性がいる、というように。でもこれは少し誤解を招きます。バラバラの二種類の差別を両方経験する人がいる、という話でありません。性差別、人種差別だけでなく、階級、貧富、障がいセクシュアリティといったマイノリティ属性のチェックボックスに、たくさんチェックがついている人はより差別されていますね、ということを言うために「インターセクショナリティ」を考えるのではないのです。

前述のクレンショーも「インターセクショナリティは足し算の問題と考えられがちだが、2つの差別の合計ではない」とはっきり指摘しています。たとえば、黒人女性は、黒人として差別され、それに加えて女性としても差別されるのではなく、黒人女性としての差別を経験するのです。これがインターセクショナルな経験です。

つまりインターセクショナリティは、差別を均一化し、簡略化することの危険性を指摘する言葉でもあります。同じ女性同士、あるいは同じ黒人同士ではあっても、差別の経験がまったくちがうことがあるのだ、という認識を前提に、私たちの社会が構造として何を中心に置き、何を軽視したり後回しにしたりしているかを考えることが、インターセクショナルな視点を持つ出発点となるのです。

 

フェミニズムに(も)「インターセクショナル」な視点が必要な理由。【VOGUEと学ぶフェミニズム Vol.5】 | Vogue Japan

複数のマイノリティ属性が同一人物に重なっていたとしてそれは足し算として数えるのでも、マイノリティ性のチェックボックスをより多く埋める/埋めないの話でもない。

私個人はこの話から、個別に相対している現実は個別に違うのだ、ということを強く感じた。当たり前のことだけど忘れがちでもあること。だから、例えば私やジュン・チャンを例にとっても、自分がどんな人間か、どんな問題と向き合わされているか、そうした「個人」の「個別」の話は実はとても長くて、豊かで、ややこしい語りになるんじゃないかな。そしてそうならない人は、本当はいないのかもしれない。

その「とても長くて、豊かで、ややこしい語り」は普段簡単に開示されるものではない。その分、時と人を選んでそれが語られるとき、特に私の場合は否応なしに普段より隅々まで行き届いた理解を求めてしまうのかもしれない。言葉の隙間や沈黙の奥にあるものを理解してほしいし、誤魔化すような曖昧な笑いが必ずしも心から笑いたくて出ているものではないと分かってほしい。それはある種の我儘と分かってはいる。

ジュン・チャンが前便で指摘した通り、「完全な理解」を求める自分に対しては、私自身、そんなものは存在しないのだから望むのはやめなさい、と自分で自分を律するトーンでいる。今までも、完全な理解は無くてもありがたい寄り添いはたくさんもらって、そうして生きてきた。それなのになぜ、「完全な理解」なんてものを求めてしまうのだろう。

少し前に、自分で書いているほうのブログに『私の話』という記事を書いた。一言で言えば身体障害者の両親を持つ自分がどういう経験をしてきたか、という話なのだが、なんでわざわざそんな話をインターネットの海にいまさら流す気持ちになったかと言えば、

固有の経験として、自分のアイデンティティに無視できないレベルであるものを、私は今のところ妹としか共有できない。

私の話 - 祈りにも似て

これに尽きる。「CODA」「きょうだい児」「ヤングケアラー」といった名称を見る度、それぞれに違った苦しみがあるだろうという気持ちになる。同時に、「私達」もきっとこの世にはたくさんいるはずだけれども、名前が無いから語り合えない、とも。もちろん、似た立場だから分かり合えるなどというのは上にも書いた通りの傲慢なのだが、一方で、私はもしもそういう人がいたならば話してみたいと思う気持ちも捨てられない。そこに「完全な理解」があるとは思わない。ただ、きっと言葉が通じるまでに必要な抵抗値のようなものが、低いのではないかと期待してしまう。なめらかに、わかりあえるのではないかと夢想してしまうのだ。

と、いうような、両親の例を取って書いてはみたが、結局のところ「完璧な理解」などないと頭では理解していてもどこかでそれを諦めきれていない自分のどうしようもなさというところに話は帰結する。私は、私が固有に相対してきた現実とそこにあったものを誰かに分かってほしいと思ったままここまで来てしまっているのだと思う。その気持ちがどこからきているのかは、自分でもよく分からない。

ジュン・チャンが前回最後に書いていた、時を置いてみての同じテーマでの返信、というものにこれはなっているだろうか。何分寒いので自分の書くものに自身が無い。勢いが大事だしそこからどう対話するかがこの書簡のキモですので、送りつけるね。

大分と東京の寒さはどう違うんでしょう。早く春にならないかな。ご自愛くださいな。


第十一便 返信

 

第十便を記念したラジオからあっという間に1ヶ月が経ち、季節も流石に移ろったところ。

すっかり秋にやられて、毎日眠いジュン・チャンです。あと、肌がカサカサしてきた。ベビーワセリン塗りたくってる。タカシナは乾燥大丈夫?

あ、まだ十便記念ラジオはアーカイブ視聴できます。BGM代わりにどうぞ。

 

先日海辺からタカシナに電話した通り、公の仕事の方でちょっとあり、気持ちを落ち着けるのに1週間、冷静に情報収集して選択肢を考えるのに、さらに1週間を要した。今は少し余裕が出てきた。そんなこんなで返信が遅くなってしまったし、あまり深い文章は今まとめられないしで申し訳ない。

ちなみに、この10月の出来事を、兄貴分でもある(石榴の花が咲いてる。)主宰の中野さんに話したら、「なに今年も厄年なの?」と言われた。毎年10月11月ってダメなんだよねえ。秋は好きなんだけど。自分で思う以上に減速しないとダメな時期なのだろうね。コロナが落ち着いてイベントや人の出も増えているから、余計に疲れる。

さて、タカシナは第十一便で「分かり合う/分かり合えない」をラジオの話題から取り上げてくれた訳だが、そのなかで僕が強く惹かれたのは以下の部分だった。

「分かり合う/分かり合えない」の話が私にとって根深いのは、私自身が「完璧な理解など存在しない」「共感や自分の立場への引き寄せによる理解にも限界がある」とよくよく分かっていて、それでも、自分にとって大切な話であればあるほどそれを相手にできるだけ完璧に分かってほしい、と思ってしまう、そのどうしようもなさだと思う

タカシナのトーンは自分を責めるような、律するような感じなのかなあと思った。実はこの文章も、視座の入れ替えが前半と後半で生じている。ただ、「〜と思ってしまうどうしようもなさ」この表現が全てを表しているようにも思う。何を以て「分かった」「理解した」なんて基準も正解もない。分かったフリをして共感ぶったりしないようにしかできないのかもしれない。

何かの言葉や分類で、個人の属性や状態を括った時に、その個別性が無視されやすくなる、という指摘があったと思う。例えば精神疾患発達障害、性的マイノリティ等のラベリングが挙げられるだろう。タカシナは第十一便で、自身がマジョリティの立場に位置することにも言及していたね。

ちなみに僕は最近、このマジョリティとかマイノリティとかいうのにもしっくりこない感覚を抱いている。いわゆるマイノリティに分類される中でも、さらにその中で対立や力関係が働き、マイノリティの中にもさらに細分化されてマイノリティがいるような感じがするからだ。

また、僕自身が社会的にはマジョリティでありながら、性自認性的指向についてはマイノリティに位置する、複数の立場(この言葉が適切か悩ましいが)を持つからだろうけど。

かと言って、自分がどの立場の代表とも思わない。僕はただ、僕なんである。同じように、タカシナもタカシナである。個人のぼやっとした生きづらさの話を、もっとしやすい社会だといいのになあ。

僕らは基本、自分の経験や価値観で物事を見聞きし、判断する。だからこそ、学問や他者との対話により、補正をしていくんじゃないかと、僕は考えた。

 

タカシナは1ヶ月経って、どう考えたのかなあ。もしよかったら同じテーマで返信ちょうだいな。

頭ポヤポヤな文章でごめんね。なんか軽いけど、今はちょっとこんくらいの出力が限界みたい。

 

晴れた空に、橙の柿が綺麗だよ。八百屋で柿とあんぽ柿の両方を買っちゃった。最近は蜜柑も出回ってきた。ゆっくりのんびり、秋を過ごしたい。

第十一便

タカシナです。
今日のお昼ごろから、この往復書簡が十回目を迎えたことを記念して、ふたりで喋る配信をしました。

配信は上のURLからアーカイブとしてお聞きいただけます。ジュン・チャン、提案から何からありがとう。楽しい経験でした。
途中私の声が途切れたりしてお聞き苦しいところもありますが、よろしければ。

余談ですが、最近ようやくラジオを流し聞きしながら何かをする、ということができるようになってきました。考え事や読書のときに頭の中に言葉が声になって響くタイプの人間なので勉強や読書にはBGMを付けられないんですが、逆に言うと考え事をしない作業のお供なら音声情報が入ってきても平気なんですね。自分はラジオというものが苦手な人間だと残念に思ってきたので、付き合い方が分かってきて嬉しいです。生きていると変化ってあるものですね。余談終わり。

その配信中、「分かり合う/分かり合えない」というテーマから、ジュン・チャンの第九便での「どうやったら自分事として考える人が増えるのか」という問いかけに対して、私は根本的に共感からくる分かり合いを信用していないのかもしれない、というような話をした。
配信終わりにジュン・チャンと観測のひらちゃんからも指摘されたのだが、このことに関して私自身配信のなかではうまく話しきれずに終わっていたと思う。もう少し掘り下げて考えてみたい。

共感からくる分かり合いを私が信頼していないのは、配信でも話したように、共感には限界があると思うからだ。
限界とは例えば、共感できる出来事にだけ心を寄せるのでは、問題解決の手からこぼれ落ちる存在が出てくるだろうということ。共感しづらい物事のなかにも、解決されるべきものは多くあると思う。それから、共感するときに起きてしまう変容。自分の経験や状況からは遠く、簡単には共感が難しい事象に対して、自分のことに引き寄せて理解しようとする手法、それ自体はある程度有効だと思う。実際私もそのようにして物事を理解しようとすることが多くあると自覚している。しかし、そのようにして得られた理解は、理解のための引き寄せの時点で元々の経験それ自体からは変容した別物となっているだろう。ジュン・チャンが指摘したように、完全な客観的理解など存在せず聞き手の主観は必ず入る、であるからその程度の変容は許容すべきだろうか。

第九便の返信の、以下の部分で私は今書いたような話をしようとしている。ただ、ジュン・チャンの企画に対してのコメントという形で書いたこともあって、自分の立ち位置やどの程度まで踏み込んで話していいか、迷いながら描いた覚えがある。そのせいか、後から読み返してみると話し手である自分の視点がぐらついていて主語の分かりづらい、意味の取りづらい文章になってしまっている。そうした反省を踏まえてもう一度このことについて考えてみたい。

ずっと、たまたまそう生まれただけで割合からマイノリティと呼ばれ、権利を得るためには声を上げ立ち上がり社会を動かさなければならない、というのはしんどいし不平等だと思ってきた。自分のことというよりはもっと広い意味で(そもそも私はどうあれ「当事者」でなくマジョリティでは?とも思う、のでこの語り方が正しいのかもあまり自信がない)。本当はそんなことしなくていいはずだしそんなことしなくていい社会にさっさとなればいいのになかなかそうはならない。人一倍頑張らなければ文字通り生きてゆけなくて、その様を見てそうでない人たちは石を投げるか、さもなくば感動の涙を流したりする。それって同じ高さの地平に立った同じ尊厳のある存在への扱いなんだろうか。

それでも、世の中がそういう不平等で溢れているときにただ黙っているだけだと現状を追認していることになる。「あなたには分からない」と言いながらも本当は分かってほしい、それはそう。でも本当に全部分かるのは無理だろうとも思うし全部分かったと言われたらそれはそれでこちらのプライドが多分許さない。同じ経験なんてお互い絶対無理なのに、100%分かるのは無理でしょ、と思う。 だから、相手と7割くらい分かり合えたらそれでいい、というところで止める力、さっき言った胆力みたいなもの、それが必要なのかなあとも思う。これはジュン・チャンの投げてくれた「どうやったら自分事として考える人が増えるのか」の答えにはあまりなってないね。申し訳ない。

第九便 返信 - 次に呑む日まで

これを書いた時の思考の流れについて思い出してみると、色々と見えてくるものがある。
まず初めに「自分のことというよりはもっと広い意味で(そもそも私はどうあれ「当事者」でなくマジョリティでは?とも思う(後略)」と書いているが、これは言葉通りの意味の他にある種の予防線としての意味も持たせている。書き手である自身の立ち位置を当事者でなく客観的第三者だとはっきり言っておきたかったのだ。
その姿勢は、前段終わりの「……それって同じ高さの地平に立った同じ尊厳のある存在への扱いなんだろうか」まではかろうじてではあるが保たれているように思う。
しかし後段の、「『あなたには分からない』と言いながらも本当は分かってほしい、それはそう。でも本当に全部分かるのは無理だろうとも思うし全部分かったと言われたらそれはそれでこちらのプライドが多分許さない。同じ経験なんてお互い絶対無理なのに、100%分かるのは無理でしょ、と思う。(後略)」という部分では、完全に客観的第三者の意見ではなく、自分の気持ちの吐露となっている。前段と後段で、書き手の立ち位置そのものが客観から主観へと変わってしまっているのだ。
なぜこのようなねじれが起こったのか。

私は、自分の意見をマイノリティ当事者のものとして表出するのは違うと思っている。例えばセクシャリティで言えば私はシスヘテロでありその意味でど真ん中マジョリティだ。自身の女性性への折り合いが付いていないとしても、それでもマイノリティとして目に見えて苦しい思いをしたわけではない自分がそれを大きな声で当事者性として言うのは、本来の当事者への簒奪のように思える。それが前段の、客観的な立場からの怒りの表明を行おうという姿勢に繋がっている。
けれど、確かに生きづらさがある。分かってもらえないというような気持ちがある。その気持ちが素直に出てしまったのが後段だ。
「『あなたには分からない』と言いながらも本当は分かってほしい、それはそう。でも本当に全部分かるのは無理だろうとも思うし全部分かったと言われたらそれはそれでこちらのプライドが多分許さない。同じ経験なんてお互い絶対無理なのに、100%分かるのは無理でしょ、と思う。」
これが私の本音であると思う。

「分かり合う/分かり合えない」の話が私にとって根深いのは、私自身が「完璧な理解など存在しない」「共感や自分の立場への引き寄せによる理解にも限界がある」とよくよく分かっていて、それでも、自分にとって大切な話であればあるほどそれを相手にできるだけ完璧に分かってほしい、と思ってしまう、そのどうしようもなさだと思う。
完璧な理解など不可能だと分かっているから、他人と相対するときには相手の全てを分かったりできないということを強く意識する。そのようにしてしか守られない尊厳があると思っている。その延長線上に、「私が当事者を名乗って意見を表すことをしたくない」の気持ちもある。私には理解できない苦しみを、私の例に引き寄せて語り矮小化するようで嫌なのだ。
その一方で、理解されたいという気持ちもある。私は傷ついたり怒ったりしているのかもしれない。何に対してかは分からない。ただ、そうした気持ちをもし誰かに話すなら、気持ちをそのまま分かってほしいと思ってしまう。
これは大いなる我儘で、思い上がりで、依存で、つまりよろしくない欲求だ。以前カウンセリングというものに通ったときも、理解されたと思う瞬間は決して多くは無かった。求めすぎ、期待し過ぎなのだと思う。健全な程度の欲求に留めたいし、自分の中にこんな欲求があること自体直視したくはなかった。けれど今日の配信の中でもそういう話はしたし、結局「分かり合う/分かり合えない」」の話の行きつく先はここなのだと思う。

とはいえまあ、そういう自分とも折り合いをつけてやってはいる。こうして何かを書くことも、人と話すことも、それを通じて他人のもたらしてくれる気付きで私自身が私のことをより理解していく。自分の内側のことなんて覗き込みすぎると気が滅入る、というような意見もあるが、私は自分を苦しめたり怖がらせたりしているものの正体が知りたい。結局のところ私の悩みは私だけのもので、それはもうどうしようもなく、しかし理解されないとしても私の悩みが私のものであることは、救いである。

配信の余韻が残っているうちに書いてしまおうと思ったら、あまり制御の効いていない文章になってしまいました。内省録じゃんみたいな。ごめんよ。
お返事、好きなように書いてください。気長に。
季節の変わり目なのでサバイブ第一に、ご自愛ください。

第十便 返信

 

ご無沙汰、ジュン・チャンです。

8月は蒸し暑い日が続くと思ったら、秋雨前線で急に涼しくなり、また暑さが戻って、と極端な天気が続いた。涼しい時には冷房もいらなかった。地元青森の夏のようだったよ。西に来てこんな8月ははじめてだった。

8月は磯野真穂先生の『聞く力を伸ばす』(https://filtr.stores.jp/items/60476b45c19c45157e9f75a4)を受講し、課題もあってそっちに注力していて、返信が遅くなってしまった。

そういえばコロナ関連だと、大分も8月は200人超の陽性者が出て、時短営業やらなんやらなっていた。今は落ち着いてきたけれど、身近に迫っている感覚があって、いつ自分がなってもおかしくないし、仕事関連で出ないかと、ザワザワしながら過ごしている。

 

ついにこれまでもちょこちょこ出てきていた、生理やらピルやらの話題になったね。我々は生理最中・前後の影響が大きい方だから、最もっちゃ最もなんだけど。ただ、それだけではない影響も色濃く受けざるを得なかった面もあるわけで、タカシナがそこを吐露してくれた訳だ。

正直、返信にすごく悩んだ。何度も何度もタカシナの書いた第十便を読んだ。後半でルッキズムの連続講座の話題になったのは、生理というものが「女性」という身体を強く意識させるものだからだろうな、と僕は受け取った。

というか、僕はそうだった。自分は女でも男でもないと認識しているのに、毎月生理がくることで、女であることを突きつけられているような気がして、益々自分が嫌になってしまっていた。学生時代、思い詰め過ぎて3ヶ月生理が来なかった時がある。婦人科に行ったけど、異常なしだった。その時に受診した婦人科で、医師から「ちゃんと妊娠できるから大丈夫よ」と言われたことがすごくショックだったのを覚えている。何も言い返せず終わったけれど。患者の性自認やどう生きたいかはそれぞれである、という意識のない医師が多いことを、社会人になって受診した婦人科でも感じた。医療とある価値観(産めよ育てよ、家父長制)が結びついているのを感じて嫌になるし、何より自分みたいな存在が想定されていないことに、疎外感を覚える。今お世話になっている主治医は、そんなことは言わないので安心して行っている。

 

働いていてつくづく思うが、資本主義と生理がくる体は相性が悪いのではないかと思う。タカシナが指摘していたように、ピルを飲んだからって、全ての生理前・最中の症状がなくなるわけではない。改善はされるが、生理前の情緒不安定さや、最中の痛み、怠さは飲んでいてもある。それでも消えたくなったり、急に涙が出たりすることはなくなったし、痛みで話せないこともなくなった。でも、フルタイムで働き、時にはやらざるを得ない残業をしながらこの身体と付き合うのは、今でもしんどい時がある。かと言って転職するというのも違う話な気がする。いつまで今の働き方ができるのか、不安になる。低容量ピルを飲み始めた最初の数年は、自分の体質に合う種類に当たるまで3〜4種類は試したし、薬価を考えると早く飲むのをやめたいとも思った。そのことで、さらに自分の身体が嫌になったもんだった。今では生理用品や低容量ピルへのアクセス・負担金額も、自分が生理のくる身体で産まれたから強いられるのが悪いのではなく、仕組みの問題であると理解している。薬価も割り切った。

この間、ひとまわり年下の友人が「早く(生理)あがってほしい」と言っていて吹き出してしまったが、しかし激しく同意したのであった。

生理にまつわること、もっと学校教育の中で知識付与してほしいが、単純に生理だけではなく、性自認や働き方といった、広いテーマと結び付けて考える機会を作ってほしい。性教育だけで終わる話じゃないと思うんだ。この辺り、YouTubeで取り組まれる専門家が現れたのは、希望だな。

 

服装とか化粧とか、僕らはあまりにも見た目で人を判断するのが好きだなあと思う。どれだけ注意していても、相手の見た目で何かを判断しようとしてしまう。ちなみに僕は化粧をやめた。もともと就活までしないで過ごしていたけど。好きだからリップやフットネイルはする。眉はたまに鋏で整える。ワンピースにレギンスや、ワイドパンツを好む。冬から春はmen's FUDGEがお手本、大好き。髪型はタカシナもご存知の通り、年々短さが増し増しになっている。自分のお気に入りの格好ができる今が、めちゃくちゃ楽しい。そこに女らしさや男らしさはなく、ただただ自分が好きか、気に入っているかがある。この手のこと、はじめて言葉にしたかもしれない。我ながら清々しいや。

 

タカシナは[世の中のことを書くのを避けた結果自分の話ばかりになってしまった。]と第十便の最後に述べていたけれど、個人的なことこそ、世の中に繋がっていると僕は思う。前述した医療従事者が想定する患者像や、生理用品・低容量ピルの個人負担は、個人的なことに見えて、実は大きな枠組みの問題だ。もっと言えば、フェミニズムの思想然り。歴史学で個人の証言が扱われるようになったこと然り。

コロナがさらなる炙り出しを見せた政治の脆弱性に対して、正直徒労感しか感じないのだが、未来に向けてできることは地味でもやっていきたい。ここにこうして書いておくことも、確かな行動の一歩だと願いたい。

 

久々に長めの文章を書いた気がする。LINEでも話していたけど、我々が対面で会って呑み食いできるのはいつになるんだろう。最近はあんまり飲酒もしなくなったから、ランチでタイ料理食べながらビール呑むくらいからやっていきたいな。打ってたら涎出てきた。タカシナとご飯が食べたいなあ。